夜明けの星18



(……――――――)


かすかに寒気を覚えてシェスはゆっくりと目を開けた。


(――――――ひよこちゃん、は、どうなった……?)


きょろきょろと周りを見回すがノウの姿は見えない。
それどころか、自分と刺し違えたはずのオーガの姿も、周りに生い茂っていた樹々や植物も見当たらなかった。
静まり返った上下左右真っ暗な空間に、シェスは「またか」とうんざりとした気分になる。
何も見えなくてあたりまえだ、これはシェスの意識の底なのだから。

シェスが見る夢は決まって真っ暗な空間に一人でぽつんとたっているところから始まるのだ。
だからおそらくこれも夢だろうと、霞がかったふわふわとした意識で瞳を揺らす。
適当に動き回っていればそのうちまた目が覚めるはずと動かそうとした身体はまったく力が入らなかった。
手足が痺れるような感覚に、はて、と首を傾げて思い出す。


(―――ああ、そういやオーガにぶん殴られて身体がひんまがってたわ。俺の泣く子も惚れる肢体が台無しだぜ。っつーか、腕か足とれてんじゃねぇの? …くそっ、くっつけんの時間がかかるのによォ…。あー、でも、あれか、気合いいれりゃあ生えるか?)


人から鬼になってから50年は過ぎたシェスの思考はすっかり化け物のそれだったが、この場に疑問を呈する者は誰もいない。
オーガの豪腕に殴り飛ばされた感覚が蘇る。
まずはじめにガンッと衝撃がきて、骨が砕ける音と皮膚が破れる感覚から数秒遅れて全身に走る激痛に、ああこれはまずいかもなと他人事のように思って意識を手放した気がする。


(―――なんだ、もしかして死ぬのか。……吸血鬼に死ぬって表現はどうかわかんねぇけど)


意識を失って、無意識の底に沈んでいるシェスでもわかる。どうも自己再生能力が追いついていないようだ。山賊の油っぽいぎとつく血で喉を潤した程度では足りなかったか。


(……マジで治りが遅いな。そんなに血が足りてなかったのか?)


シェスは知らなかった。
血の摂取量が足りていない状態で怪我をすれば確かに治りは遅くなるが、他にも傷の再生を遅らせる要因が一つあることを。



 

それは、吸血鬼本人が自滅を望んだ場合だ。



 

死にたくないと生にしがみつくような気力なんてとうの昔に擦り切れてしまったシェスは、そんなに重症だったのか、気づかなかったな、とどこまでも他人事だ。
シェスは惰性で生きていたが、生きることに疲れていた。
自分が大切にしたかった何かはすでに遠い過去に自らの手で壊してしまった。
苦楽を分け合って身を寄せ合った何かは移り変わる季節とともにすでにシェスの手が届かないところに行ってしまった。
みずから聖水を飲み干してハンターの前に躍り出るような愚行はしないが、やむを得ない事情があってそれで我が身が滅びるのなら、それも致し方ないことだと真っ暗な空間で揺蕩いながら思う。
そう考えると、今回のことはやむを得ない事情になるのではないだろうか。


(……くく、ふふ…っ。結局俺はどっちつかずってことか。あー、あー、呆気ないもんだなァ)


たくさんの肉塊を作り上げてきた血を啜る鬼の最期が、気まぐれに連れ去った子供を庇ってだなんて、なんとも滑稽なことだと嗤う。
けれど、悪い気はしなかった。
ずっと昔、幼いシェスが怪我をしたときにおぶって孤児院まで一緒に帰ってくれた誰かの広い背中を思い出して、まるで自分も同じようなことができたのではとそう思ったから。

ふと、視界の端がやわらかく揺れた気がした。
真っ暗な世界で揺れる真っ黒なものに、怪訝そうに瞳を細めたシェスが目を凝らして、


「……――――――――……」


息を呑んだ。
揺れる真っ暗なものは服――修道服――の裾だった。
見覚えのある服だった、ぐるりと眼球を動かして視界に映った姿は懐かしい顔だった。
時間の流れとともに薄れていったはずの記憶が、突然明瞭に蘇り、懐かしい顔が誰かをシェスに理解させる。
ぱちぱち、と瞬いた蜂蜜色の瞳が驚愕に染まって、薄い唇から漏れたのは呆然とした消え入るような声だった。


「……、神父様。シスター………」


遠い過去に自らがずたずたにした二人がシェスから少し離れて場所に立っていた。
二人の足元には白い百合が咲いていて、その後ろにはこじんまりとした教会と、自分が幼少のころ過ごした孤児院が建っている。
気づけば自分の足元にも白い百合が咲いていて、周りの景色はかつて自分が暮らしていた街にとても良く似ていた。

シェスが普段見るどす黒い夢では、二人は決まって真っ赤に染まってバラバラになっているのに、どうして今日はこんな穏やかな風景が目の前に広がっているのだろう。
生前の穏やかで快活な姿の二人も少なからず夢に出てくることはあったがそれはシェスが子供の姿とともにあるもので、向けられるあたたかい笑顔も子供の頃の自分に向けられているのが常であった。
その光景に手を伸ばした瞬間、自らの口元から甘い味がする血が滴り落ちて、足元には血溜まりが広がり、傍らには変わり果てた二人が転がっているところで目が覚めるのだ。

だから、こんなふうに。

こんなふうに青年の姿で白い幽鬼のように成り果てた自分に向かって二人が微笑みかけてくる姿なんて、シェスがこうなってしまってから見る夢では一度もなかったのだ。
神父のカスペルとシスターのベルナッタ。
親のように慕っていた二人がこちらに微笑みかけている。
ベルナッタの眼差しがあたたかくてやさしくてきまりが悪い気分と嬉しさをシェスに抱かせた。
オーバーリアクションが多いカスペルが大げさなポーズをとっているのに呆れとくすぐったさを久しぶりに感じた。
ぼんやりと立ち尽くしていると、いつのまにか二人の傍らに懐かしい影が五つ並んでいることに気づく。


「……アトス、ルギオ、ベロニカ、アンナ、レアン」


アトスは冬を越せなかったときの姿で、ルギオとベロニカとアンナとレアンはまだ全員が孤児院にいた頃の幼い姿だ。
全員、シェスが作ったあの拙い布の袋を大事そうに持っている。
みんな笑っていた。柔らかく、笑っていた。
一人だけ呆れ混じりの視線を送っているのもいたが、それがまた懐かしくて、シェスの瞳はゆらゆらとゆれる。
穏やかな夢だ。
あたたかくて苦しい夢だ。


「………、………」


ゆるりと、痺れていた手足が引き寄せられるようにカスペルたちの方へ動く。
さく…、さく…、と歩く地面は子供の頃シェスがいつも孤児院に帰るときに歩いている道にとても似ていた。


「………、………」


さく、さく、さく。
ゆっくり、ゆっくりとカスペルたちの方に歩を進めていく。
歩を進める度にシェスの視界が少しずつ低くなっていく。
すらりとのびていた手足が丸みを帯びて、冷たく輝く絹のような白銀の髪が稲穂のような柔らかい亜麻色に変わっていく。


(もういいのか。もう……)


あの場所に果たして自分が戻れるかはわからない。
多少はまともな感性と人並みの道徳心をもっていたシェスだが、それは鬼になる前の話だ。
今のシェスの両手は赤黒く汚れきっていて、精神はぐずぐずにくずれて砕けたまま歪んだ。
懐かしい家族と同じ場所に自分がいける可能性は殆ど無いだろう。
神など信じたくないシェスだったが、それでも教会で過ごした日々がシェスに与えた何かはまるで頃合いを見計らっていたかのように思考にすっと干渉してきた。


―――毎日、神様に感謝の祈りを捧げましょうね。神様はきっと私達を見てくださっています。現世で役目を全うしたあと人は神様の元で過ごし、また現世にうまれてくるのですよ。
―――じゃあ、ちゃんとおいのりしなかったら?
―――神様は慈悲深いのでそれでもきっとつれていってくださるでしょう。でも、神様の元にいくまえに、怖いなにかがつれさろうとしてしまうかもしれませんね。


「怖い何か」に成り下がった自分はどうなるのだろうと、そう思った。
どこにもいけず、消えてしまうのだろうか。それとも今よりも凄惨な地獄へと流れていくのだろうか。
だが、そう思いながらもシェスの歩みは止まらない。
この一瞬だけでも、カスペルたちが笑っているあたたかいあの場所で、もう一度笑ってみたかったからだ。


(もう、休んでも、いいよな)


シェスの姿は今や子供の姿に戻っていた。
思考がぼやけてなにかもどうでもよくなる。
帰ろう、あの家に。帰ろう、帰ろう。
そう思って亜麻色の髪を揺らして、踊るように飛び跳ねて、無邪気に駆け出そうとして、

 

 

 


―――ご、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!!

 


 

 


駆け出そうとした背中にぶつかってきた声にびくりと動きを止めた。
懺悔と後悔と悲しみが入り混じった慟哭だった。
誰かが泣いている声だった。聞き覚えのある声だった。
振り向くと真っ暗な闇が後ろには広がっていて、ひんやりとした冷たい空気が流れてくる。

パチパチと蜂蜜色の瞳を瞬かせて、カスペル達がいる方向に目を向けるが誰も泣いていなかった。
そこでふと思い出す。
もう随分前に、彼らの声を忘れてしまったことを。
それなのに、聞き覚えのある声だと思ったのはなぜだろう。

 

 

 



―――おねがい、起きて。おきてよお……。


 

 

 

 

震える声は、顔が見えなくても泣きじゃくっているとわかった。
この声の主はとても泣き虫で、悲しいことがあるとすぐに泣いて、嬉しいことがあってもすぐ涙ぐむ気質だったからだ。
「泣き虫」とつついてからかうとさらに泣く困った子供で、でも結局自分はつい構ってしまうのだ。
…なぜ、そんなことがわかるのだろうとシェスは首をかしげる。
ジクジクと胸が痛む理由がわからない。
あと少し、あと少し走ればカスペルたちのもとにいけるのに。
あたたかい胸の中に飛び込んで、もみくちゃにされながら笑えるはずなのだ。
それなのに、泣きじゃくる聞き覚えのある声がシェスがあの日だまりに溶けるのを引き止めてくる。
誰だ、誰だったか、わからないのに、胸がざわつく。このざわつきも、つい最近感じていたものだ。

 

 

 


―――シェスさん……。

 

 

 

 

名前を呼ばれて、シェスの身体がもういちどびくりと震えた。
呆然とした顔で暗闇の向こうを目を凝らしてみつめると、くすんだ金髪の子供が暗闇の向こうで泣いているのが見えた。
ぼんやりしていた思考がはっきりとしてくる。
誰の声か思い出した、思い出してしまった。
港町の路地裏で惰性に過ごしていたシェスのもとに現れた一人の子供の声だ。
暴力を奮っていた男達から半ば誘拐に近い形で連れ去った子供の声だ。
自分の正体を知っているのに、逃げ出さず、誰かに退治を頼むこともせず、自分の後ろをひよこのようについてまわる子供の声だ。


(……――ノウ)


シェスはあの日だまりに逃げ込んでそのまま溶けてしまいたかったのに、ノウの泣きじゃくる声に動けなくなった。


(なんで泣くんだ)


シェスは子供の泣き声が苦手だった。
孤児院で年下の子供の面倒を見ていたころも、相手が泣きじゃくってると困ってしまった。
あの手この手で笑わせたり、ばあっと驚かせて泣き止ませたものだ。
人間だった頃のシェスは、身内だと認めた相手の面倒を見るのがとても好きだった。


――しぇすにいちゃんがほんとうのおにいちゃんだったよかったなあ。
――ばかだなあ、ベロニカ。お前は俺の子分で妹分なんだから、妹みたいなもんだろ。
――ほんと? えへへ~!!
――シェスがほんとうの兄さんねえ。どうかしら、くろうするわよ、きっと! だってシェスってかおだけはいいから、むだにきれいなかおの兄さんなんていたら、たいへんよ!!このまえだってお嬢ちゃん、なんていわれてたのよ。わたしもいたのに。いやになっちゃう!!
――おい、アンナ。それはほめてんのか、けなしてんのかどっちだよ!!
――ふふ、どっちもよ!
――このやろう!!


懐かしい会話を思いだす。
そう、そうだった。シェスは家族同然に思っていたみんなに頼られて、慕われるのが本当に嬉しかった。
兄のように思っていると言われ、妹分や弟分達が嬉しそうに笑っているのをみると、誇らしい気持ちになった。
だから、逆に泣かれるとどうしていいかわからない。
それは鬼と化して人格が歪み、他人の幸福を呪い不幸を嗤うようになったシェスの心の底にもまだこびりついている人間だった頃の残滓だった。


(なあ、なんで泣くんだ。オーガは倒してやっただろ。それとも俺はオーガを倒しきれなかったのか。ノウ、お前、怪我したのか。どこか痛いのか。それとも死んだのか。なんで泣くんだ。せっかく、俺が、いなくなってやろうっておもったのに)


わからない、わからなくて途方に暮れる。
ノウはずっと泣いている。暗闇の向こうでずっと泣いている。
この暗闇を突き進めば、泣いているノウのほうにたどり着くのだろうか、泣くなといえばノウは泣き止むのだろうか。
けれど、シェスはあの暗闇に戻りたくないと思った。
だってあの暗闇は、いつだってシェスを責め立てて、苦しめて、悲しい気持ちにさせるからだ。
そして鋭利な牙をはやして血を啜る、鬼の自分に戻すから、嫌だった。
ああ、それなのに。

 

 



――シェスさん、おいていかないでよお……。


 

 

 

ぐすぐすと泣きながら暗闇で日に焼けた手を彷徨わせて何かを探しているノウに、かつて血溜まりの中で泣きながら笑っていた自分の姿が重なって。

 

 

 



――子分の面倒を見るのが兄貴分の努めなんだろ。

 

 



日だまりの方から聞こえてきた無愛想な言葉に背を押されて、「うるさい」と憎まれ口をたたきながらシェスは暗闇の方に歩きだした。
どろりとまとわりつく暗闇が怖くて、気持ち悪くて恐ろしくて、それなのにあるき続けているとそれが次第に心地よくなっていくのが本当に嫌だった。
それでも自分が気まぐれに連れ去った子供が泣いているのが腹立たしくて、日だまりの方に引き返す気分にはならなかった。
こんなときも自分はどっちつかずか、と内心呆れながら嗤って泣き声がする方に歩いていく。
丸みを帯びた手足がすらりとのびて、稲穂のような柔らかい亜麻色の髪は冷たく輝く白銀の髪になって。

暗闇に溶けるように、シェスはもう一度意識を手放した。

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