夜明けの星17

 

 

――――――――時間は少し遡る。

 


「あの、ありがとうございました」

ノウはシェスがいるかもしれないとあたりをつけた森の入口にいた。
徒歩なら数日かかる距離だったが、こちら方面を通る馬車に運良く乗ることができ、森の入り口までは送ってもらうことができたのだった。


「いやいや、いいよ。ついでだったからね。それにしても本当にここでいいのかい? 最近物騒らしいじゃないか、この森」
「そうですよ。まだ若いのに、こんな場所で薬草採取だなんて危ないでしょうに」
「だ、だいじょうぶです。入り口周辺しか探索しないので!あと、おわったら、自分で帰れます。帰りはゆっくりでもだいじょうぶだから」
「うーん、すぐ終わるなら待っているけど……」
「あの、あの、だいじょうぶです。でも、えっと、親切にしてくださって、ありがとうございます」
「気にしないで。それじゃあ私達は迂回していくけど、君も気をつけてね」
「はい」


お礼を告げてペコリと頭を下げる。
馬車がガタゴトと揺れながら森を離れていくのを見送ったノウは、鬱蒼とした森の中に恐る恐る足を踏み入れた。


「シェスさん、まだ森にいるかな。会えるかな…。もしかしたら小型の妖魔や野犬がでるかもしれないから気をつけていかないと…」


念の為、魔除けの香も買っておいた。
ある程度はこれで露払いができるはず。
そこそこの値段がしたのであとでシェスに怒られるかもしれないが、仕方ないと自分に言い聞かせた。


「えっと、探知のスクロール……、あった!」


ごそごそと荷物袋を漁って、読み上げると魔術が発動するそれを取り出す。
スクロールは魔力が込められたインクで特定の魔術を発動させる記述式が記されている羊皮紙を丸めたもので、魔力が少ない者でも中級以上の魔術を使えるありがたい道具だ。
消耗品であるため一度読み上げるとただの羊皮紙になってしまうのが悩みの種でもあるが。
そのため豊潤な魔力を持った魔術師からすればコストがかかると思われている。
ちなみにノウたちはスクロールを使い終わったあとはメモがわりに使っていた。
羊皮紙代は馬鹿にならないのだ。使えるものは使い倒す。
それが金銭に対して厳しいシェスの信条だった。


「よいしょ……」


探知のスクロールを広げて、その上にシェスの日傘をかざす。
書かれている文言をたどたどしく読み上げれば、スクロールに書かれた刻印がふわりと光り、小さな糸のような線が東に伸びていくのをコンパスで確認した。


「よかった。シェスさん、まだ森にいるんだ。……はやく、いかなくちゃ」


森の中で迷うかもしれないことを考えて帰還のスクロールが荷物袋の中にあることを確認し、干し肉のかけらを口に入れて歩きだす。
いつでも剣を振れるように取り出して、攻撃魔術や身体強化の魔術が記されたスクロールを何枚か手に握りしめて。
森の中には何が潜んでいるかわからない。
普段であれば索敵してくれるシェスがいないことを改めて自覚して、取り巻く環境に神経をとがらせる。
いまだぼんやりとしたところがなくなったわけではないが、シェスに出会った頃に比べればノウの成長は目覚ましいものだった。

しかし、失敗したのはこの森に今なにが潜んでいるのかちゃんと把握していなかったことだ。


「………えっ…?」


ガサっと音がした方向を振り向いたノウの思考は一瞬だけ凍りついてしまった。
身長が約3m~4mはあるだろう巨躯に長い毛髪・髭。
頭からは一対の角、口からは牙太く鋭い牙が伸びていて、肌の色は茶色のそれが、なんであるかノウはわからなかったが、風貌からして鬼の類だと理解する。
シェスと違ってノウはまだ遭遇したり討伐した妖魔の数が少ない。
見たことがあるのは小型の妖魔ばかりだった。

運が悪いことにノウは森の中でシェスではなく別の鬼に遭遇してしまったのだ。
詳しい生態を知らなくても、目の前にいる鬼が危険なことは嫌でもわかる。
巨大な身体から生えている手はやはり体格に見合うぐらいには大きく、その手は毛深い猿人らしきものを引きずっていて、よくよくみればそれは血塗れの毛深い人間の男で、片足と片腕がなかった。

人間の男を引きずっている鬼の鋭利な牙が生え揃った口からぶらさがっているのは――人の腕――だ。
鬼は食事をしながら森の中を歩き回っていたらしい。
バリボリと噛み砕いているものが何か理解するよりも、鬼がこちらに気づいて醜悪な顔を歪めてじゅるりと舌なめずりした事に気づいたノウは。


「――――!!!」


ほぼ反射的に爆発のスクロールを読み上げた。
そしてシェスがこちらにとんでくるのにきづくまで、その場を逃げ出して茂みに身を潜めたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「―――う、うう、いたた……」


突如シェスに放り投げられたノウは受け身を取りそこねて地面で背中を打ち付けてしまった。
茂みから身体を起こして背中を擦る。
辺りが酷く静かなことに首を傾げたが、その疑問はあっという間に解消される。
直前の状況を思い出したからだ。
羽音に気づいて目を向けた先に、探し求めていた人の姿を捉えて思わず声を漏らしてしまったこと。
そのせいで、身を潜めていたのに鬼にみつかってしまったこと。
聞き覚えのある声に怒鳴られて、放り投げられて、目を見開いたノウの視界で彼の人が切り裂かれたこと。

バッとたちあがって、どくどくと波打つ胸を抑えながら視線を巡らせた先に。


「―――………ぁ…」


ずたずたに引き裂かれ、身体があらぬ方向に曲がっているシェスが血溜まりの中に沈んでいるのをみつけた。
遅れてあの大きな鬼も倒れていることに気づく。
鬼の額には赤い花が咲いたあとがあり、白目をむいてピクリとも動かない姿に絶命したのだと理解した。
しかしそれよりも。


「あ、あ…、し…しぇすさん…」


ふらふらと近づいてその細い体に手を伸ばす。
機嫌がいい時にからかうように嗤う顔は虚ろに沈んで、不安定なときはぼんやりと揺れている瞳は閉じていて見えない。
絹のような透き通った白銀の髪は血と泥で汚れていて、彼がいつも身に纏っているカソックはパックリと胸元から切り裂かれている。
ひゅー…っと聞こえる音が風の音なのか、それともシェスのか細い息なのかノウにはわからない。

酷い怪我だ。これが人間なら既に物言わぬ躯になっている。
ぴくりとシェスの指先が動いていなければ、ノウもシェスが死んでしまったと思っただろう。
しかし、シェスはまだ生きていた。
人の理にあてはめれば、まだ生きている状態だった。
それでもノウは安心できない。
なぜなら。


「ど、どうして、傷が塞がらないの…?」


もともと白い肌はいつもより青白く、傷口から流れる血はどくどくと流れ続けている。
シェスの傷が塞がらないことにノウは衝撃を受けていた。
何度かシェスの傷が目の前でふさがっていくのを見たことがあったからだ。




――美人は瞬きしてる間に元通りになるんだよ。吸血鬼の自己再生能力、すげぇよなァ!!ハハハ!!!




俺の美貌はそうかんたんに損なわれないんだよ、と戯けた声で歪に嗤うシェスはひどく透明な笑みを浮かべていて、吸血鬼である自分を称賛して褒め称える声はいつも嘲りと絶望に満ちていた。
吸血鬼は自己再生能力が高いから、と言っていたシェスはたしかに大怪我を負ってもしばらくしたらケロリとしていた。
ノウはそんなシェスをみるたびに悲しいときもあったが、安心もしていたのだ。

 

自分よりずっと強いシェスはそう簡単にいなくなったりしないのだろうと、勝手に思っていたのだ。

 


「どうしよう、どうしよう…、シェスさん、シェスさん……!」


シェスがこうなったのは、無謀にも自分が森に一人で分け入ったせいだ。
そしてあの大きな鬼に遭遇してしまったせいだ。
爆破音にきづいたシェスがどこからか飛んできて自分を庇ってくれなければ、こうなっていたのはきっとノウだった。

自分のせいでシェスがしんでしまう。
ノウが感じたのは激しい悲しみと恐怖だった。


(やだやだやだ、シェスさん、しなないで、しなないで、ご、ごめんなさい、ごめんなさい……っ!!)


傷薬ではとても間に合わない。
震える手で包帯をとりだして千切れかけているシェスの腕を固定する。
応急処置もシェスが教えてくれたものだ。
細い瞳からぼろぼろと涙を流しながら包帯を巻く。


(……な、泣いてる場合じゃない!泣いてる場合じゃないのに!!おれしかここにはいないのに、おれが、おれがしっかりしないといけないのに…っ!!ど、どうして、おれって、こうなの……!!!)


袖で乱暴にごしごしと目元を拭う。
ちょっとしたことですぐ泣いてしまうノウは、そんな自分が昔からあまり好きではなかった。
泣きたくないと歯を食いしばっても、我慢しようと腕をつねっても、結局自分の瞳はとめどなく涙を流してしまう。
兄弟姉妹はそんな自分を慰めてくれたが、同年代の村の子供には随分とからかわれたし、女々しいと呆れられて面倒だと嘆息されたことだってあった。
シェスにも似たようなことを言われて、とても悲しくなって更に泣いてしまったことがある。



――う、うっ、ぐすん…。
――また泣いてんのか、ひよこちゃん。ほんっと、お前って泣き虫すぎるだろ。あーあー、顔がぐちゃぐちゃだなァ、ヒヒヒ!
――ううう…っ!うわああん…!!



このまま泣き続けていたら、シェスにも面倒だと思われてもういっしょにいてくれなくなるかもしれないと思い至って、さらに嗚咽が漏れ始めたころ。
もふっと重みを感じて、ぱちりと瞳を瞬かせて顔を上げれば、シェスの姿はもうそこには無くて。
ああ、やっぱり面倒だと思われてしまった。どこかに飛んでいってしまった。しばらくしたら帰ってきてくれるのだろうか。
そう再び肩を震わせたノウの耳に、



――キィ。



と呆れたような高い鳴き声が頭上から降り注いだことは大事なノウの思い出になった。
なぜならノウが落ち着くまで、その白い蝙蝠はノウのくすんだ金髪をくしゃくしゃとかき混ぜながら頭上にずっといてくれたから。



――真面目にやってんだったらぴいぴいないてないで胸をはればいいだろうが。



自分は自分で頑張ればいいといってくれた。
依頼が成功したら、ささやかにお祝いしてくれた。



――おいおい、そんなぴよぴよ歩いてたら日が暮れちまうぜ。ま、転ばれるよりはマシだけどなァ。



鈍くさいノウにあわせてゆっくり歩いてくれているのを知っていた。
怪我をしたら、皮肉混じりに嗤いながらいつのまにか傷薬を置いていてくれた。

ぞんざいにノウの髪をグシャグシャにしてくるのは、決まってノウがなにかうまくできたときで彼なりに褒めてくれているのだとわかっていた。
うっかり洋服をやぶいてしまった翌日、綺麗に繕い直されて椅子にかけられていたことだってあった。
おまけとばかりにひよこの刺繍を入れられたのには抗議したが結局うやむやになってしまったのも困りものだがくすぐったい記憶だ。

怒りをにじませながらも、美味しく作れなかった料理でも必ず食べてくれた。
作った料理にはじめは眉をひそめて拒絶していたが、やがて味がわかるようになってからは失敗した料理をまずいと言いながらも全て食べてくれた。



――うめぇよ。



あれだけ血液以外は味がしないからと食べてくれなかった料理を作る度に食べてくれていたシェスが、ついこの前呟いたあの言葉をノウはずっと忘れないようにしようと思う。
同時に浮かべた、少しだけやわらかい戸惑いをにじませた蜂蜜色の瞳と、いつもよりも緩やかで小さく弧を描いた口元もずっと忘れない。

ぞんざいに扱われることも多かったが、それ以上に自分を気遣ってくれていたのをノウは理解していた。
自分よりもいろんなことができるシェスが、ひどく不安定なときがあるのも知っていた。



(――だから、はやく、しっかりして、シェスさんに安心してもらおうと思ったのに)



頬を伝った涙が、ぽとんとシェスの頬に落ちる。
シェスはか細く息を吐くばかりだ。
ぞんざいに髪をかき混ぜてくる手は力なく地面に落ちたまま動かない。



(これからもいろんな依頼を一緒に受けてがんばれたらいいなと思っていたのに)



自分の涙がはらはらとシェスの青白い肌を伝っていく。
このままではシェスが死んでしまう。
それに、こうしている間も時間は容赦なく過ぎていくのだ。
もし、このまま夜が明けたら。
こんな状態のシェスが日を浴びてしまったら。
吸血鬼は陽の光を浴びると焼けただれて苦しみながら灰になると聞いたことがある。
実際その場面を見たわけではないが、シェスは日傘をいつもさしていたし、うっかり日にあたったときシェスの白い肌が赤く腫れ上がっていたので、少なくとも陽の光を浴びることはシェスにとっていいことではないはずだ。


「どうしよう、なにか、なにかないの……?シェスさん、シェスさんがこのままじゃ、しんじゃう……やだ、やだよ……!」


きょろきょろと周りを見渡すが、鬱蒼とした樹々と大きな鬼の骸のほかにノウの視界に入ってくるものはない。
あるとすれば自分が持ってきた二人分の荷物袋だ。


「……、あ……っ」


荷物袋の近くに剣がおちている。
いざとなれば立ち向かうしかないと、さっきまで茂みの中で握りしめていた自分の剣だ。
シェスに放り投げられたときに思わず落としてしまったのだろう。

そっと剣を手に取る。
ずしりと重いながらもノウにあっている剣の鈍い光が夜の森で星のように瞬く。
そういえば、最初は青銅の剣だったな、とぼんやり思い出す。
依頼を受けて経験を積んで、それでもまだノウの実力は駆け出しレベルだったが、腰からさげた戦いの相棒は青銅から鉄に、鉄から鋼に変わっていった。


「…………、………」


その細い瞳はいつもの弱気さが鳴りを潜めて、強い決意が揺らめいている。


「…………、………っ……」


きっと今自分がしようとしていることは、あの綺麗で意地が悪くてどこかおかしくて優しい彼が、最も嫌がって怒ることをしようとしている。
怒られるかもしれない、今度こそ本当に見放されるかもしれない、飛び去られてしまって二度と自分が見つけられなくなるかもしれない。
それでも。


「……っ、おれ、おれは、このまま、シェスさんが目を開けなかったら。このまま起きてくれなかったら、やだよ。そんなの、いやだ、やだよ……っ……!」


シェスは善人ではないのかもしれない。
夜にふらりとでかけていって、錆びた鉄の匂いを纏いながら帰ってくる日は幾度とあった。
刹那的で享楽に満ちて、嗤いながら嘆いているシェスの立ち振舞いは、未来を否定する生き方だった。
いつしか我が身がどうなったとしても、知ったことではない、だから気まぐれに優しいことをするし、気まぐれに残酷なことをするのだと。
そんな頽廃的な空気すら感じられた。

けれどノウにとって、シェスは故郷の兄と同じくらい憧れや親愛を抱く存在になっていた。
このまま、このままシェスがいなくなってしまうのは嫌だと心の底からそう思った。



「――――だから、こうするっ!」



ぎゅっと目を閉じて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ノウは剣の刃先で最も身近にあるそれを切りつけた。

PAGE TOP