夜明けの星19



「………、……」


シェスが手放した意識を手にとって目を開ければ空には変わらず月が浮かんでいた。


(……ああー、くっそ、いてぇ)


視界の端には動かなくなったオーガと、鬱蒼と生い茂る木の幹と茂みが見える。


「………?」

 

あと胸が物理的に重い。


「うう……ぐすっ………」


痛みに顔をしかめて寝起きのようなぼやけた意識を手繰り寄せながら聞こえてきた声に視線だけを送り、くすんだ金髪が胸の上で揺れていることに気づいた。


「………!!」


霞む視界が次第にはっきりして、ノウを泣き止ませようと言葉を紡ぐよりも先に目の前の光景を正しく理解したシェスは息を呑む。
自分の胸に突っ伏してぴいぴい泣いているノウの腕に見覚えのない切り傷があることと、自らの口内に広がる甘い味に気づいたからだ。
反射的に上体を起こす。
衝動的に起き上がったせいで傷ついた内臓と砕けた骨が悲鳴を上げたが、起き上がることができる状態まで自分の身体が回復していることに愕然とした。


「お、まえ…」

 

シェスが起き上がったことに気づいたノウがぱっと顔を上げる。

 

「……あ、シェスさ……」
「お前……!!!!!」

 

涙でぐちゃぐちゃになっていた顔が呆然とこちらを見ながら、こちらの名前を呼ぼうするのを遮ってシェスは声を荒げた。

 

「なにやってんだ!!!!ばかか!?何だその傷は!!!お、お前、お前――――ッ」

 

泣き止ませようと言葉を紡ぐよりも前に口をついて出たのは、怒りが滲んだ声だった。
自らの口内に広がる甘い味がなにかわかっていたからだ。
鬼になってからは何度と無く味わってきたものだからだ。

 

「――――――お前の血を俺に飲ませたのか……っ!!!!!」

 

美味そうだ、以前そういったのは自分だ。
非常食、たしかにそう言ったこともある。
その首を指でつついて、薄い唇を開いて犬歯を覗かせて嗤いかけながら、何度もそういった覚えがある。

 

でもそれは、牽制だった。拒絶だった。

 

かろうじて残っている人間の部分が、情が湧いた子供は食いたくないと悲鳴を上げて抵抗するがゆえの、自衛だった。
まさか、あっちから血を飲ませてくるなんて思っても見なかった。
こんな手段を取るなんて思っていなかったのだ。
ただ泣くばかりだと思っていたのに、この子供はこんなときに限って思い切りが良すぎて嫌になる。

激しく狼狽しながら怒鳴るシェスの様子は、普段飄々と嗤う姿からも、不安定にとつとつと呟く様子からもかけ離れている。
かつて人だった頃のシェスはどちらかといえば予想外の事態になかなか対応できない種類の人間で、取り乱せば声を荒げて狼狽えてしまう人間だった。
皮肉にも今のシェスの反応は実に人間じみているのだが、それに気づく余裕はシェスにもノウにもない。

 

「……っ!!!!」
「――わ……っ!?」

 

強めに両手でノウの肩を握る。
本当はノウの胸ぐらをつかもうとしたのだが、全身の痛みのせいでできなかった。
自分はノウの身体のどこかを食いちぎったのではと眼球を忙しなく動かして確かめるが、目立つ損傷は見当たらない。
けれど、ノウの腕からはまだ血が流れている。

 

「……くそが、ふざけるなよ、手負いで血が足りてねぇ俺に自分の血を飲ませるとかなァ!自分から食って血を啜ってくれって言ってるようなもんだろうが!!食い殺されてぇのか!!!!!」

 

激しく舌を打って、悪態をまきちらしながらノウをぐいっとどかして起き上がる。
ふらつく身体で荷物袋を手繰り寄せて、中から包帯を取り出しノウの腕に巻いて止血する。
シェスの指は先の戦いで何本か折れていたが、それでもなんとかノウの腕に包帯を巻くことができたのは、この間にもシェスの吸血鬼としての自己再生能力が仕事をしているからだ。
自分はどれだけノウの血を啜ったのだろう。わからない。死にかけていたシェスは自分の理性がどこまで残っていたのかわからない。
グスグス泣いているノウの顔色は悪い。血を流しすぎたのかもしれない。止血剤は荷物袋に入れていただろうか。

 

「……なんで、こんなことをした」

 

ふざけるなと怒り狂って暴れたい衝動を抑えて地を這うような声で問えば、ノウは鼻をすすりながら口をパクパクと動かした。

 

「……ぐす…っ、しぇ、しぇすさんが、しんじゃうとおもっ………血が、あれば、なおるか、もって……」
「……だから、自分の腕を斬ったのか」
「うっ、だって……」
「……だってじゃねぇんだよ。お前の得物は剣だろうが。片手で剣が振れるのか?できねぇよなァ? たいして魔力がねぇお前にとって、武器を握って振るう手と、状況によって避けるなり逃げるなりするための足がどれだけ大事か俺は前に教えたよなァ? アア?」
「うっ、うう、ひっく……シェスさんと、話が、ぐすっ…したくて……」
「俺はもう話すことなんてないんだよ、応急処置はしてやる。もう失せろ、失せろよ」
「でも、でも……」
「ふざけんなよ、お前、さっき俺が来なかったらどうなってたかわかってんのか」
「……、……ごめんなさいっ……」
「もう、森から出ていけ」
「……!!」
「帰還の術式が書いてあるスクロールが荷物袋に入ってたはずだろ。それで街方面に飛んで帰れ」
「しぇ、シェスさんも…」
「お前一人で帰れ」
「……っ……」
「……なあ、俺は言ったよな? 自由にしてやるってさァ。あれは脅しじゃねぇんだぞ。俺はまだ血が足りないんだよ。ほら、逃げろよ、あっちいけよ。このまま、俺が腹減らして、我慢できなくなって、その首へし折って喰い散らかされたくなかったら―――」
「……や、やだ」
「………………あ?」

 

どこか拗ねたように呟くノウに殺気を込めて睨みをきかせれば、ふるりと身体が震えていた。

 

「……やだ!やだよ!!シェスさんと帰る!!!」

 

それでも震えながらじっとこちらをみてくる瞳に苛立ちが募る。
珍しい姿だ。
普段はおどおどと涙ぐんでいるか、ふわふわと笑っているかのどちらかなので、ノウがこんな反抗的な態度をシェスにとってくるのは珍しい。
話すときもどこか自信なさげで静かに話すタイプだ。
こうして大きい声を出すのも珍しい。
普段であればその様子を面白がってからかうところだが、今のシェスにそんな余裕はなかった。

 

「お、まえに、お前に何がわかる――ッ!!!!!この、この…っ、人の気も知らないで…くそがきが!!!!!」

 

狂気と愉悦と絶望と諦観に押し込められて胸の底で固まっていたものが無遠慮にかき混ぜられたような感覚とともに、ぶわりと浮かび上がった感情に突き動かされるまま怒鳴り散らす。
十年ちょっとしか生きていない子供が何を勝手なことを言っているのかと、髪を掻きむしって手当り次第に何もかも引き裂きたい衝動に悲鳴を上げる。

 

「お前、俺がせっかく見逃してやろうと思ったのに…、そんなに食い殺されてぇのか!!お前を食い殺したら、また、なくなるんだよ…!!俺だって、俺だって、あったのに、あった、あったんだ、なのに、なくなった、ぜんぶ、なくなった…っ……!!!」

 

ずっと蓋をしてきた激情が溢れ出して悲痛混じりの怒声になって森の中に響き渡る。
紡ぐ言葉は相手の理解を求めていない支離滅裂とした怨嗟の叫び。
目を血走らせて怒り狂う様はまるで獣の唸り声のようだ。

 

「だれも、誰もいなくなった!!だれもいねぇんだよ!!!俺が、おれがっ!!!そうした!!!!俺をしってるやつも、俺がしってたやつも!!!もうだれもいな―――」

 

 

 

 

 

 


「おれがいるもんっ!!!!!!!」

 

 

 

 

 

 

シェスの悲鳴じみた慟哭をかき消すようにノウの声が強く響いた。
数秒遅れてシェスは自分の鼓膜を震わせた声と言葉にガツンと頭を殴られたような感覚に襲われ呆然と口をつぐむ。

 

「おっ、おじ、おじいちゃんじゃないしっ、おばあちゃんじゃないけどっ、おれがいるもん!!!!!!ま、だ、まだみじかいかもしれないけど、おれ、おれだって、シェスさんといっしょにごはんたべて、おやすみっていってるもん……!!」

 

子供特有の支離滅裂な主張だ。
まとまりなんてありやしないし、何が言いたいのかよくわからない。
それなのに、ノウがぶつけてきた言葉がまるで鋭い刃のように、シェスの凝り固まった汚泥のような狂気と絶望を切り裂いた。
だからなんだと怒鳴り返すこともできず、ぶつけられた言葉に瞳は丸くなり、息は止まった。
幾重にも重なった壁を無遠慮に叩き割って引き剥がされていくような感覚に無意識に恐怖を感じたシェスは、自分よりも頭一つ分は低い子供から逃げるように少し身体をひこうとして―――、

 

 

 


「……!! い、いかないで!!!」

 

 


―――できなかった。
包帯が巻かれていない方のノウの腕がばっとのびてシェスのカソックの袖を掴んだ瞬間、びくりと肩が揺れて、シェスは動けなくなった。
シェスの蜂蜜色の瞳の奥にゆらめくのは怯えだ。
本気を出せば、ノウの腕を逆方向に折り曲げて他の部分も切り裂いて壊してその場を去ることなんて簡単だ。
簡単なのに、できない。
恐怖のまま、突き飛ばしたいのに何もできない。

 

「……おい、なに、勝手に服つかんでやがる。はなせよ」

 

まるで金縛りにあったみたいに身体が動かず、絞り出すように出た声は酷く弱々しい。

 

「……やだ!!!!」

 

ぼろぼろと細い瞳から涙を流しながら、ノウが強くシェスの袖を引く。
多少は力がついてはいるが、人外のシェスからすればたいした力じゃないはずなのに、ノウが裾を引くたびにいとも簡単にシェスの身体はぐらぐらと揺れた。

 

「シェスさん、おじいちゃんやおばあちゃんをしってるから、きっと一緒にいたことがあったんだよね? おれね、おじいちゃんもおばあちゃんもだいすきだったんだ。シェスさんもそうだったんでしょ…?」
「……もう、おぼえてねぇよ」
「なにもおぼえてないの? いっこもおぼえてないの? さっきなくなっちゃったっていってたのに!なくなっちゃったって苦しそうに言ってた!!くるしくなるぐらい大事だったんでしょ…!? それはおぼえてないっていわないよ……!!」

 

振り払って耳を塞いで飛び去りたいと思うのに、足が地面に縫い付けられたように動かない。

 

「うる、さ―――」
「だいじなこと、いっぱいあったのかもしれない、おれのしらないことたくさんあるのかもしれない。おれ、あんまり話すの上手じゃないし、今、へんなこといってるかもしれないけど、ねえ、シェスさん」
「やめろ、もう、うるせぇ、んだよ」
「だいじなものは、だいじなままでいいんだよ!!」
「……、………」

 

びくりとまたシェスの身体が震える。

 

「だいじなのはだいじでいいとおもう、でも、でも、これからずっと、シェスさんは、もう何もだいじにしちゃいけないの…?」

ノウが紡ぐ言葉ひとつひとつが鋭く刺さって激しい痛みを引き起こす。

 

「たのしいこととかうれしいこと、もうずっとあったらだめなの……!?」

 

早く、黙らせなければ、と恐怖で視界が滲んで揺れる。
怖い、これ以上この子供がぶつけてくる言葉を飲み込んだら、飲み込んでしまったら。
……飲み込んでしまったら、自分はどうなるのだろう。
こわい、怖かった、目の前の子供は、ノウはシェスの歪に凝り固まってできた壁を無理やり叩き割って、もう二度と顔を上げることはないはずだった、懐かしくも忌まわしい人だったころの残滓を引きずり出そうとしているとしか思えない。

 

怖い、もう聞きたくない。

 

だから突き飛ばそうと手を動かしたのに、その瞬間ノウは包帯が巻かれた方の腕も伸ばしてきてそのまま腰のあたりにしがみつくようにくっついてきた。
子供特有の高い体温が、体温のない自分の身体にじんわりと伝わってきて、同時にざわざわと這い上がってくる何かから逃げるように身を捩るがノウは離れない。
どこにそんな力があるのか、それとも自分の反応が弱すぎるのか。
呆然とした顔のまま、激しく動揺しているシェスは動けない。
足が竦む、どうしてかわからない。
情けない、少し力を込めれば簡単に壊せる子供なのに、どうして。

 

「……あのねっ!!もし、もし、シェスさんとおじいちゃんたちが一緒にいたことがあるんならね、おじいちゃんとおばあちゃんは、シェスさんのことずっとだいすきだったとおもう……!!」
「――………」

 

笑いながら後ろをついてきたレアンとアンナ、二人の姿が脳裏をよぎり、また視界が揺れた。

 

「だって、あの、おれがおじいちゃんにもらったおまもり、シェスさんがつくったんでしょ!?おじいちゃん、ずっと、ずっとだいじにもってたんだよ!!」
「……っ…やめろ…」

 

すっかりくすんでしまったあのお守り代わりの布袋を久方ぶりにみたとき湧き上がった感情を思いだして、頭がしめつけられるように痛い。

 

「それぐらい大事だったんだ!!シェスさんのことぜったいふたりとも大好きだったんだ!!」
「……っ…やめろ…!」

 

喉が引き攣って、声が震える。身を捩ってもノウは離れない。

 

「やめろ!!やめろ!!!!それは今の俺じゃないんだよ!!!なんでわからねぇんだ!!!!この…っ……」

 

 

 

 


「おれもすきだもん!!!!!」

 

 

 

 


端正な顔を憎々しげに歪めながら罵倒を浴びせようとしたシェスは、ノウの言葉に再びガツンと頭を殴られたかのような衝撃を受けてひゅっと息を呑んだ。

 

「昔のシェスさんのこと、しらないけど!!きっとおしえてもらったらすきになるし、今のシェスさんだっておれはすきだもん!!!」

 

怖い。

 

「おれ、何をするにも遅いのに、シェスさんは怒ったり肩すくめても、ちゃんと、ずっとまっててくれた。料理、最初たくさん失敗しちゃったのに、続けていいっていってくれたし、少しずつ食べてくれてた。マフラーだって編んでくれた、戦い方、依頼の受け方教えてくれた!」

 

怖い、こわい。

 

「面倒見てくれた、助けてくれた、シェスさんが、たまに夜いなくて、それで、帰ってきたときに洋服を紅く汚してても、おれは、しぇすさん、すきだもん!!!!!!!」

 

こわい、こわいこわいこわい。

 

ノウの言っていることが理解できない、理解したくない。
ぶわりと肌は粟立っていたし、蜂蜜色の瞳はぐにゃぐにゃと歪んだ。
痛みを愉悦に置き換えて、絶望を狂気で覆い隠して、そうしてようやく今のシェスはシェスとして成り立っているのに、今向けられている言葉の意味を理解したら、今度はどう崩れてしまうかわからない。

 

「…っ、シェスさん、ねえ、どうしてちゃんとみてくれないの……」

 

内心動揺と恐怖で身を固くしているシェスに、ノウは更に言い募る。

 

「……なにを」
「うっ、ぐす…っ…、おれ、シェスさんの目のまえにいるんだよ」
「………、……」
「おれ、おれは、おじいちゃんやおばあちゃんになれないけど、あのね、あの、ね、おれ、ここにいるよ。おれ、がんばるから、ちゃんとみて」
「………、……」
「つよくなるから、シェスさんが不安になるなら、おれ、がんばって、もっとつよくなるから」
「………、……やめろ」
「もっとおいしいごはんつくれるようになるから」
「………、……やめろ、やめろよ」
「シェスさん、おねがい。おれから、」
「やめろ、やめろっていって………」
「おれから、おれからにげないでよう……」
「……やめろって、いってんだろ………」

 

バカにするなと普段なら睨んで黙らせれるはずなのに。シェスの胸の内はいつもの不安定な状態に輪にかけてぐちゃぐちゃで、薄い唇は少し開いたまま震えるばかりだった。

 

「おれ、いきてるよ。おれ、げんきだよ。シェスさんが助けてくれたから、今もげんきだよ」
「うるせえ、だまれ、もうだまれよ…、もう、うんざりなんだよ」
「シェスさん……」
「目を離したらしぬくせに、お前なんてひよっこ、どうせ、すぐしぬくせに……っ…」

 

畳み掛けられる言葉に、かつて人だった頃の自分がじくじくと傷みを訴えて憎たらしくて吐き気がした。
息を詰まらせたまま歯を食い縛ろうとしたがうまくいかなかった。
震える唇から漏れた弱音はシェスの紛れもない本心で、それを吐き出してしまった事実に顔をかきむしりたくなる。

 

「い、今は元気だもん!!じゃ、じゃあ……!!」

 

思わずシェスが漏らした本音に、ノウは涙でぐちゃぐちゃになっている顔を上げて、

 

 

 

 

 

 

 

「おれがげんきなあいだは、いっしょにいてよっ!!!!」

 

 

 

 

 

 

思うがままそう、口にした。


「……―――っ…!」

 

電流を浴びせられたかのように、もう一度シェスの身体がびくりと震えた。
いつも眠たそうであいているのかわからないと揶揄した瞳が真剣にシェスを見つめている。
力が入っているのだろうか、普段はよくみえない鮮やかな緑色の瞳が今日ははっきりと見えた。

 

「おれ、できるだけげんきでいるから。ねえ、シェスさん。宿に帰ろようよ……。一緒に帰ろうよ…!」
「……、………」
「それでごはんいっしょにたべて、それからおやすみっていって、それから、それからね……」

 

情けなく眉を下げながら、泣きすぎてこもるような声を出しながら。

 

「明日も一緒にご飯食べようよ」

 

ノウは少しだけ笑ってそういった。

 

「……なんなんだよ…」

 

傷口に乱暴に消毒液をふりかけられたような激しい痛みを引き起こす。

 

(俺は、俺は、その"明日"がくるのが嫌なのに。明日がきたら、明日はどうなってるかわからねぇのが嫌なのに)

 

目が覚めたときにはすべてが終わっていて、自分は人でなくなっていた。
シェスにとって明日がくるのは、大事な誰かとの別離を連想させるものだった。
それなのに、この子供はなんて、残酷なことをしてくるのだろう。
もうずっと昔に諦めて捨て去ったものを、長い下り坂の先の先まで転がりおちて粉々になったなにかを、のろのろと坂を下ってわざわざ拾い集めて自分の眼の前に差し出してきたのだ。

 

「なんなんだよ、なあ、おまえ、おまえ…」

 

ぴいぴい泣いてばかりのひよっこだと思っていたのにとんでもない。
その声には吸血鬼の自分を殺す協力な毒をもっていた。
ぼろぼろと流れる涙は聖水よりもずっと効果的だ。
しゃくりあげながらぶつけてくる言葉は聖句よりもずっと効果的だ。

 

「おまえ、なんなんだ、よ…」

 

絞り出すように漏れた声は、白い鬼が皮肉交じりに嗤いを振りまく粘ついた艶気のある声ではなく、何十年も前に壊れて砕けて歪んで消えて置いてきた、悲しくて苦しくてつらくてしにたくてきえたくてこわくてさびしくてしにたかった、怯えが滲んだ人間の男の声だった。

 

「お前なんて……」
「シェスさん……」
「お前、なんて、面倒見てやるんじゃなかった」

 

呆然とした顔で、瞳を揺らしながら俯いて、弱々しく呻く。

 

「………しぇすさ…」
「とっとと田舎に泣きながら帰るかと思えば、しつこく俺にまとわりついてきやがって…」
「だ、だって……」
「散々脅したのに、ぴよぴよぴよぴよついてくるわ……」
「ぴよぴよはしてないもんっ!」
「言うに事欠いて、明日も飯くおうとか……」
「……うん」
「生意気いってんじゃねーぞ、ひよこのくせに」
「うん」
「…………おれ、が」
「うん」
「おれが、せっかく、みのがして、やろうって…おも…っ……」

 

身じろいだシェスの身体がかすかに震えていることにノウは気づいたが、それよりも怒りに染まっていた蜂蜜色の瞳の奥が酷く揺れていることが気になって、何も言わずにシェスの端正な顔を見つめて先を促すように見つめた。

 

「……くそ。お前、ふざけんなよ。好き勝手、いいやがって…。こんなしつけぇなんて、思ってなかった。とんだ誤算だわ…。くそ…、くそ…っ。俺はなァ、お前ほどしつこくねぇが、お前ほど簡単じゃねぇんだ。わかるか? 勝手にばかやって、うっかり死んでみろ。ころして、やるからな……。死んだら、殺してやる…」

 

ノウを引き剥がすことを諦めたシェスは、震える両手で髪をぐちゃぐちゃとかき乱しながら、戸惑いと殺気を滲ませた声をノウの顔面に突きつける。
それは矛盾に満ちた呪いのような言葉だったが、今のノウはそれぐらいで意見を曲げたりしない。

 

(シェスさん、やっと、こっちみてくれた気がする。おれのいいたいこと、とどいた、きがする)

 

確かにシェスは普段からノウのことを気にかけていた。
戦い方を教え、依頼の受け方を教え、衣服を整えてくれた。
けれどそれはシェス側からの行動や言葉であってシェスは本当に疲れているときはノウがいくら近寄ろうとしても、すっと壁を作って嘲笑ってはぐらかしてきたから。
だから、こうして本音の欠片を自分に零してくれたことが嬉しかったのだ。

 

「…! よ、よかった!!」
「……はあ?」
「あっ、ご、ごめんなさい…。でも、だって、そうやって怒るぐらいには、その、気にかけてくれてるんだって……」
「………………………」
「しぇ、シェスさん…?」
「お前のほうが俺よりよっぽど頭おかしいんじゃねぇか?」
「え、ええ!?」

 

じとりと見下ろしてくる眼差しは、白い蝙蝠姿でノウをときどき睨んでくる顔に似ていた。
シェスを捕まえたまま、あわあわと慌てるノウをシェスはじっと見下ろしていたが、やがて、じわりと薄い唇を震えさせて。

 

「…、……ふ」
「………?」
「く、…ふふふ、はは、ひひ…っ、はははは」

 

笑った。

 

「シェスさん?」
「は、はは、ふふ、あーあ…。こんな、こんなめんどくせぇやつに、ふふ、俺がな、俺が、ふふふ…っ」

 

とてもおかしそうに笑った。
眉を下げて、目を細めて、怒ったような泣きたいような顔で笑っていた。
その笑みは、ノウがつくったスープとデザートを食べたときに浮かべたときの顔に近かった。

 

「えっ?えっ??」
「……ふふ、くく、あーあ。そうだなァ、そうか、うん、うん。まあ、いいか。なあひよこちゃん、俺はな、このままだ。このまま、なにもかわんねぇからな? 今更いいこちゃんに戻るなんてこたぁないんだよ。ずっとこうだ。でも、お前がそれでもいいっていうんだからしかたねぇよなァ。あーあー、いいぜ、お前が嫌がろうがどうなろうが、もう知らねぇ。お前が馬鹿やって死ぬか、俺の機嫌を損ねて殺されるまでは、近くで見ててやるよ」
「ほんと……っ!?」
「おー、いいぜ~。お前も大概やべぇことがわかったからなァ。頭がオカシイやつ同士、仲良くなろうじゃねぇか、ひよこちゃん」
「お、おかしくないとおもう…。それにおれはひよこじゃないっていってるのに!」
「だったら早く一人前になりなァ!!ヒヒヒヒ!!!あんな図体でけえだけのオーガに勝てねぇんじゃあまだまだだぜ。ひ、よ、こ、ちゃん!」」
「う、うう……!!」

 

意地悪く笑うシェスに頬をふくらませるノウだったが、胸のうちに広がるのは嬉しさだった。
いつも蜂蜜色の瞳は、こちらを見ているようで、どこか遠いノウの手が届かない所を見ているような朧気で。
手を伸ばせば霧のように、退廃的に嗤いながらなにもかも誤魔化して。
届きそうで届かないそれは、まるで湖面に浮かぶ月のようで。
それがノウはもどかしくて、さみしくて、悔しかった。

 

それが、ようやく。やっと。

 

どこか遠い場所を見ているシェスが、こちらをみてくれるようになった気がして。
届いたのだと思った。
感情に突き動かされるまま紡いだ言葉はきっとまとまりがなくて、もう一度同じように言えと言われたらノウ本人でも何をどういったかわからなくなるようなひどいものだったが。

 

それでも、届いた。届いたのだ。

 

ノウは嬉しかった。
先程からヒーッ、ヒーッ笑い転げている眼の前の人がいつ笑いを止めてくれるのかは少し心配だが、それでも嬉しさは隠せない。

 

「も、もう……。あっ!そうだ、シェスさん、日傘、もってきたよ」
「……おー」

 

ノウが荷物袋からそっと日傘を手渡せば、シェスは素直にそれを受け取った。
問題なく傘を開いてくるりと回している様子から、折れていた指はもう治ったらしい。
シェスの自己再生能力がしっかり働いているようだとノウはほっと胸をなでおろした。

 

「……あ、シェスさん。むこうが明るくなってきたね。夜明けだ」
「……そうだなァ。明けるな」

 

夜空にぼんやりと浮かんでいた月はいつのまにかはっきりと姿を表していて、近くには小さな星が寄り添うように瞬いていた。
鬱蒼とした森の上に広がる空が次第に明るくなっていく。
ゆっくりと夜が明けるとともに月も星もみえなくなっていくが、たしかにそれらはそこにあったし、明るい空に溶けて見えなくなっても、夜が来ればまたあの月や星はそこにあるのだろう。
それだけで十分だとそっと笑ったのがどちらだったかは、二人しか知らないことだった。

PAGE TOP