白霧の月04

「……あ、そろそろもどらなきゃ」
「きゅ」


しばらくシェスの頭をなでていたノウだったが、名残惜しそうにシェスを木箱の端にのせる。
先程まで嬉しそうにニコニコしていたあどけない顔はどこか翳りを帯びていた。
まだ撫で足りないのかとシェスは胡乱げにノウを見つめる。


「次はもっといい名前かんがえてくるね! なにがいいかなあ…。めれんげ…?」
「キエェェーーーーーー!!」
「わーーーーっ!!メレンゲも!?メレンゲもだめ!? 」


隙をみて勝手に名前をつけてこようとするノウに奇声をあげるシェス。
何日も何日もシェスが木箱の隙間からでてくるのを待っていたときから思っていたが、ノウは意外と諦めが悪いと言うかしつこいところがあるようだ。
このまま、押し切られて新たな名前が定着してしまうのではと思うとシェスは気が気でない。
シェスは蝙蝠姿のまま、器用に渋面をつくってノウをみつめていたが、ふとその着ている服に意識が向いた。


わたわたと腕を動かすノウが着ているのは、質素な布でできた服だ。
ところどころ擦り切れて色がくすんでいる生成り色の服は、ノウのサイズにあってないのかややぶかぶかである。
まあ、それだけなら特に珍しいことでもない。
兄弟姉妹のお下がりでサイズが大きい服を着せられる子供は孤児院にも結構いた。
シェスが気になったのは別のところだ。


(暑くねぇのかこいつ。表通りにいる奴らはたいてい袖がない服を着てんのに)


ノウが着ている服が長袖なのである。
この時期の港町は蒸し暑い。
海から流れてくる潮風やこうした薄暗い路地裏で多少は涼めるものの、通気性がなさそうな質素な服は体温が高い子供には暑くて仕方がないのではなかろうか。
薄暗い路地裏でも暑さで体調を崩してそのまま冷たくなっている浮浪者をたまにみかける程度には、この町は蒸し暑いのだ。
眼の前の子供に倒れられでもしたら面倒だし、もう少し袖の短い服を着てくれば良いのにと思う。
実際ノウは時々暑そうに額の汗を拭っていた。
もしかしてこれしか服がないのだろうか。
シェスはノウが路地裏に顔を出すとき以外、どんな暮らしをしているのか全く知らないことに今更きづいたのだった。


(…ガキの服ぐらいならつくれなくもねぇが、突然蝙蝠が服を渡してきたらさすがにこいつもわけがわからねぇよなァ)


積まれた木箱の一つにまとめて隠してある自分の衣服と道具をちらっと見る。
もうずっと触っていない裁縫道具の状態はどうだったろうか。
まあ布がなければ服は作れないし、服ができた頃には季節が変わっている可能性はあるのだが。


シェスは気づかない。


自分が誰かのためにまた何かを作ろうと考え始めていることに。
どこかのほほんとしたノウの行動にやきもきして、自分が世話を焼こうとしていることに。


「えっと、じゃあ、またね。こうもりさん」


ノウが微かに笑って小さく手をふる。
シェスに背を向ける身体はまだ幼さが残っていて頼りない。


「―――、―――」


小さく手を降った際にぶかぶかの袖からノウの手首が顕になった。
シェスは蜂蜜色の瞳をぱちりと瞬かせる。


(………なんだ、あの青痣)


一瞬袖口からみえたノウの手首に、青黒い痣のようなものがみえた。


(あいつ、また転んだのか?どんくせぇな…)


ノウはなにもないところでもよく転んでいるので、そのときにぶつけでもしたのだろう。
そうに違いないと思ったが、シェスはあの青痣がどうも気になった。
耳をパタパタさせながら見送ったシェスは、しばらくノウが立ち去ったあともじっと表通りの方を見つめていた。












「――――おい、あれ」
「――うん? わあ…」


昼下がりの活気あふれる港町の一角で、ざわりとした声が広がる。
人々の視線の先には、一人の青年がコツコツと石畳を歩く姿があった。


青みがかった白い日傘をさして、黒いケープを羽織ったカソックを身に纏い、白絹のように透き通った白銀の髪は歩くたびにさらりとさざ波のように揺れている。
色白の肌に浮かぶ蜂蜜色の瞳は艶やかに釣り上がり、蠱惑的な美貌をその顔に作り上げていた。
歩いていたのはシェスだ。


この日、シェスは珍しく蝙蝠姿ではなく人の姿で港町の表通りを歩いていた。
最近日中は体力を温存するため蝙蝠姿でいるシェスだったが、別になろうと思えばいつでも人型になれる。
けれど、蝙蝠姿のときしかしらないノウが人型をとった自分に驚いてここにこなくなるかもしれないと考えると、シェスはそうなるのがなんとなく惜しくなっていた。
あいかわらずノウは定期的にシェスの元を訪れては、他愛のない話をシェスに聞かせてきたり、蝙蝠姿のシェスを撫でてきて、それが案外悪くなかった。
エネルギー不足なのもあったが、人肌に飢えていたシェスはノウの気まぐれな善意と好奇心に便乗しようという考えもありここ最近はずっと蝙蝠の姿だったのだ。


「あんな神父様、うちの港町にいたか?」
「巡礼とかじゃない?だって、あんな綺麗な顔立ちの人がいたらすぐ話題になるでしょ」
「随分と別嬪さんだなあ。ありゃあ、男装でもしてるのかね」
「ばかね、男の人でしょ。…たぶん」
「日傘だなんて洒落てるねえ」
「もしかしたらお体が弱いのかもしれないわ」


シェスとすれ違う人々は、その端正な顔立ちに思わず見惚れて立ち止まり、好き勝手に囁いている。
人間だった頃は、自分の容姿に関して好き勝手に囁かれることに不快感を感じていたシェスだったが、今はなんとも思わない。
むしろ、自分の顔が色々と便利なことを踏まえて活用するのも悪くないと思っている。


(まあ、俺は顔はかなり見目麗しいからな。噂したくなるのもわかるぜ)


人間だった頃の自分が聞いたら、怒りと呆れで怒鳴りちらしてきそうな物言いだが、今のシェスは昔の自分とは違う。
自分はそれはもう、美しくて、艶やかで、愛くるしくて、醜くて、恐ろしくて、救いようのない、化物だ。
常に自分を全肯定しながら、常に自分を全否定しているシェスの精神状態を理解できる者なんていないだろう。


今となっては、自分ですら自分がよくわからないのだから。


「神父様、ひとりかい?この街がはじめてなら案内するよ」
「いや、何度か来てるから。お気遣い、どうも」
「巡礼ですか、神父様。あ、あの、よかったらすこしお話しませんか?」
「ああ、ちょっと用事があって急いでんだ。悪いな?」
「い、いえ…っ!こちらこそお引き止めしてしまいすみませんでした…!!」


シェスはかけられる言葉や視線をのらりくらりと笑いながら躱していく。
声をかけた者も、不躾な視線を向けた者も、視界に映った蜂蜜色の瞳が蠱惑的に細まると、そのままぼんやりと立ちすくんでしまうのだった。
日傘をくるりと回してシェスは目的地へと足を運ぶ。
久々に人の姿をとったのには理由があった。












――こんにちは、こうもりさん!今日はパンじゃなくて果物を持ってきたよ。


昨日のことだ。
ノウがシェスのいる路地裏へといつものごとくやってきたので、木箱の隙間から身を乗り出してノウを出迎えたシェスだったのだが。


「―――、―――」


ノウの顔を見て動きを止めた。
蜂蜜色の瞳がノウの顔の一点をじっと凝視する。


――あれ? ど、どうしたの…。えっと、おれだよ!ノウだよ!!


いつもならバサバサと羽ばたきながら近づいてくるシェスが一向に近づいてこないことに不安を抱いたのか、ノウはあわあわと自分をアピールしていた。
別に目の前の子供が誰だかわからなくなったわけではない。
流石にそこまで耄碌していないと人間の姿のときだったら口を尖らせていただろう。
シェスが動きを止めたのには別の理由がある。


(……お前)


思わず口から吐いて出た言葉は、蝙蝠姿のせいで「キィ」という鳴き声にしかならない。
だが、その鳴き声はどこか震えていた。


(……お前、何だその顔の痣)


ノウの頬には、まるで誰かに殴られたかのような痛々しい跡がくっきりと残っていた。


(……何だ、それ。誰にやられた?なんだ?お前、今どういう環境にいるんだ?何だそれ、なあ)


人の姿に戻って問いただしたい気持ちに駆られたが、目の前でやるわけにもいかず、シェスは耳をパタパタとさせながらそろそろとノウの方へ近づいた。
じっと顔の痣を凝視しているシェスに気づいたのか、ノウは手で顔を隠して困ったようにうつむく。


――あっ、これにびっくりしちゃったのかな…。ええと、ええとね、転んじゃってそのとき顔をぶつけて。おどろかせちゃったのならごめんね、こうもりさん…。


眉根を下げてもごもごと訳を話すノウをシェスは静かに見つめるばかりだ。
誰にだってノウが言っていることが嘘なのだとわかる。
確かにノウはよく転んでいるが、転んで顔をぶつけたからといってこんなふうにはならないはずだ。
幼少時に孤児院でガキ大将のように走り回っていたシェスもよく怪我をしていたから、転んだらどんな怪我をするかとか、どこに傷がつくかとかはある程度わかるつもりである。


ぐるぐると内心に渦巻いているのは、果たしてなんという感情なのだろうか。
その日、シェスはノウがもってきたイチゴやリンゴを一口齧ったがやはり味はわからなかったし、ノウの話もあまり耳に入ってこなかった。


木箱に隠してある薬草を一房、わざとぐちゃぐちゃと遊ぶようにすりつぶして、すりつぶした薬草が羽根についたのに驚いたふりをしてノウの顔に薬草だったそれをぺたぺたとつけてやる。
目を白黒させるノウをみて、シェスは内心に渦巻いたドロリとした何かが微かにすっと溶けた気がした。












そんな一連の出来事があった翌日。
シェスは薄寂れた扉の前に立っていた。
蝙蝠姿で裏路地から裏路地を渡り歩いている際に見つけた場所だ。
キィ…っと音を立てて入るとそこは小さなバーであった。
昼間ということもあり、ほとんど人がいない店内をツカツカと歩いていく。


「…ここはあんたみたいな小綺麗なやつがくるところじゃないぞ、神父様。いや、女か?」


カウンターから聞こえてくる声に、薄い唇を開いてシェスは嗤う。
人間だった頃だったら不快感に顔を歪めて怒りを顕にしていたかもしれないが、今のシェスにとっては正直どうでもいいことだった。
むしろ、自分の容姿を揶揄混じりとはいえ称賛しているようなものなのだからそう目くじらを立てなくてもいい気もする。
声をかけてきた男にわかるはずもない。
眼の前にいる自分が、一皮剥けば暗がりで人の生き血を啜る化物だということなど。


「…いーや。声聞けばわかるだろ?はは、確かによく間違われるけどよォ」
「なんだ男か。それにしても、あんた、見た目の割に随分な口調じゃあないか」
「そうか?まあ、確かに。もう少しかしこまればよかったかもな。……訳ありっていえばわかるか?」


すっとカウンターに銀貨を数枚おけば、それっきり男は詮索をやめた。
探るような視線がシェスの方へ向けられる。


「…ここ、酒以外にも売り物があるだろ?」
「ああ、そっちの客か。それで? ……欲しい情報はなんだ?」


シェスは求めていた返答が男から返ってきたことに満足して艶やかに笑った。


この港町には情報屋を営む男がいると知ったのはいつだったろうか。
寂れたバーを経営している傍ら、その男がもたらす情報は多岐に渡りそれでいて正確だと有名だ。
情報屋というのは中立的な存在だ。
金や交渉次第で敵にも味方にもなりうる油断ならない相手であり、路地裏でひっそりと暮らしているシェスにしてみればあまり関わりたくない人種である。
恨みを買ったりしないのだろかとも思うが、まあ、その辺はうまく立ち回っているのだろう。


「ま、そんなにやばい情報がほしいわけじゃねぇんだよ。そうだな、まずは―――、」










程なくしてシェスはバーを後にした。
男には魅了と暗示をかけて、自分の顔をあやふやにさせておいた。
金はちゃんと払ったからこれぐらいはいいだろう。
良くも悪くも自分の顔は目立つ。
何に利用されるかわからないのだから、保険をはかけておくべきだ。


(……………冒険者ギルド、ねえ)


大体の情報は手に入れた。
まず、この港町には冒険者ギルドというものがあること。
ふと遠い昔に言葉をかわした男女の冒険者の顔が脳裏に浮かぶ。
名前はもう、思い出せない。
薄汚れた屋敷の階段、開けた踊り場で冷たくなっていた二人の顔をシェスは思い出せない。


「…………、………」


追憶に囚われそうになる思考を引き戻して、シェスは手に入れた情報を整理する。
冒険者ギルドでは、ベテランの冒険者が駆け出しの冒険者の面倒をみる制度があるらしい。
そういう制度があること自体は別に珍しくもないと思う。
シェスが過ごしていた孤児院でも、孤児院で生活している子供が、まだ来たばかりの子供に孤児院での生活の仕方や外での身の振り方を教えていた。
それと似たようなものだろう。
駆け出しの冒険者はベテランの冒険者のもとで雑用をこなしながら少しずつ簡単な依頼を請けさせてもらい、やがて自立したりそのままベテランの冒険者とパーティを組んだりするらしい。
他にも受けた依頼のなかで自分の適性を見出して、違う職につくものもいるようだ。


(そして世話役を担うやつには、駆け出しの面倒をみるために多少の小遣いが与えられる、と)


他人の面倒をみるというのは金がかかる。


ノウの顔にあった痣を思い出す。あれは他人が要因で与えられた傷だ。
子供同士の喧嘩、とかであればまだいいが、ノウの性格からして誰かと取っ組み合いの喧嘩をしそうな印象はない。
そもそも年の近い子供と交流があるならわざわざ薄暗い路地裏にいるシェスに頻繁に会いにこないだろうし、シェスに話す内容はいつだって故郷のことばかりだった。


なら、家族総出でこの港町にでてきていて一緒に暮らしていると仮定して、父親か母親に暴力を振るわれているのか。
それもないだろう。
ノウがべらべらとシェスに話していた内容からして、ノウと家族の仲は良好そうだ。
むしろ、家族を慕っているのがありありと伝わってくるほどだった。


――この街でね、えっと、でかせぎ?になるのかなあ。色んな仕事を教えてもらうんだよ。…でも、おれ、なかなかうまくできなくて。


手に入れた情報とノウの話によれば、ノウは冒険者ギルドの大人に預けられている可能性が高い。
その大人が、暴力を奮っているのだろうか。
最近随分と素行の悪い冒険者がいるらしいが、その冒険者と取り巻きはこの港町で強い権力を持っており多少の悪事はもみ消されてしまうそうだ。
似たような状況が昔あったのをシェスは思い出す。
そして犠牲になった人物のことも、思い出す。


(………ベロニカ)


権力を振りかざした人間に理不尽な暴力を振るわれて、路地裏で冷たくなった妹分の姿が脳裏をよぎる。
もう髪の色しか思い出せない妹分の姿が。


酷く、心が、ざわついた。


「…、……っ……」


湧き上がったドロドロとした感情に引きずられたのか、視界が一瞬ブラックアウトし足元がふらついた。
日傘が傾いて一瞬日光がシェスの白い肌を焼き、針に刺されたような痛みが走る。
即座に日傘の位置を直して事なきを得たが、くらくらと視界が揺れるのが収まらない。
たいして血液を摂取せずに動き回った代償らしい。


(あー、くそ、血が足りねぇ……。いつもの路地裏で一休みして、獲物漁りしたほうがいいな、こりゃ)


少しずつ人気のない場所へと移動していき、自分が根城にしている路地裏の近くで蝙蝠へと姿を変える。


(そういえば、あいつ、今日はきてんのか?)


今まで連日ノウが路地裏に来たことはなかったが、子供の気まぐれというのはわからないのでもしかしたらいるかもしれない。
表通りから黄色い頭がぴょこっとのぞいて、こちらに小走りでやってくる様子はなんというかヒヨコのようだと思う。
自分も昔はよくベルナッタやカスペルのあとをついてまわり、"まるでひよこさんみたいですね"と微笑ましそうに言われてものだ。
その二人はもういない。


(……、………)


本来温かかったはずの思い出は、シェスにとっては心臓をぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような苦痛を孕んでいた。
今日はやたら昔のことを思い出して、気分が悪くて仕方がない。
たとえノウが来ていても今日は相手をする余裕が無いかもしれない。


(まあ、たとえいたとしても無視して俺が眠っちまえばいいか。そうすりゃ、あのガキも諦めて帰るだろ。あー、けど、あれだ。あの痣のとこ、もう一回薬草の汁べったべたつけてやるか。変な顔して面白かったからなァ)


ノウが目を白黒とさせる様子を思い浮かべると少しだけ気分が上昇した。
そんなシェスが、バサバサと羽ばたきながら積み上げられた木箱を視認できる距離に到達したとき。




























木箱のそばに、ノウが倒れていた。
頭から、血を流して。

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