白霧の月05

(……―――、は…?)


頭が真っ白になるとこういう事を言うのだろうか。
人の姿に戻るのも忘れ、飛ぶ速度をあげたシェスはそのままノウの近くに降り立った。
どくどくと心臓が波打ち、視界がぐるぐるとせわしなく揺れる。


(何だ、何やってんだお前。ここで、なに、どうしたんだお前、あれか。転んで頭をぶつけたのか? どんだけ鈍くさいんだよ。くそ、木箱に尖ってたところでもあったのか??)
「……、あ、だいふ、く」
(この野郎、この期に及んでまだ俺をだいふくって呼んできやがる)


常であれば奇声をあげて怒り狂うところだが、今はそんな場合ではない。
意識があることにホッと息をつき、シェスはノウの頭に近づいて恐る恐る顔を近づけた。
出血はひどくない。少し切っただけのようだ。
薬草を布に浸して頭に当てて固定すれば、人間でも難なく塞がる程度の傷だとわかる。


「だ、だいふく…」
(こいつ……)


人の姿にもどって手当したほうがいいと判断し、いったんノウの視界から隠れようと木箱の影に移動しようとしたシェスを、またもや認知していない名前で呼んでくるノウ。
どれだけ自分を"だいふく"と呼びたいのか怒りを通り越して呆れてしまう。
手当がおわったら腹いせに羽先で褐色の頬をぐりぐりとしてやろう。


「……、く………」
「………?」


そんな事を考えていたからか。


「…、はやく、飛んで、にげて………っ……」


ノウのか細い訴えに一瞬反応が遅れた。
理解するより先に、積み上げられた木箱の影から伸びてくる大きな手がシェスを鷲掴みにした。


「ギッ!!!!?」


突然自分を掴んできた何者かへ視線を向ける。


「……いやあ、ほんとにいるとはな」


髭面の見知らぬ男だった。
下婢た笑いをくつくつと漏らすその顔は悪意に満ちていて醜悪に歪んでいる。
驚いて暴れようとしたシェスだったが、大きな手はノウとは比べ物にならない強い力でシェスを掴んでいてびくともしない。
このまま握りつぶされそうだ。
今自分を鷲掴みにしている手からは小動物に対する配慮など一切感じられない。


最近は日課のように自分を好き勝手に抱き上げて撫でてくるノウに複雑な顔を浮かべていたシェスだったが、ノウの掴み方や抱え方はこちらを配慮するように優しいものだった。
今まで比較対象がいなかったのでわからなかったが、子供ながらにノウは丁寧にシェスを取り扱っていたらしい。


ぎりぎりと締め上げるように掴んでくる髭面の男の顔が近くて気持ちが悪い上に、下婢た笑みが酷く癇に障った。


「ギギッ!!!!」
「っでぇ!!!!!!」


だから、何の考えもなしに男の指に勢いよく歯を立てる。
ノウに噛み付いたときとは違い、今回は相手の指を噛みちぎる勢いで噛んでやった。
シェスの鋭い牙が、男の分厚い指を貫いてざくりと沈み込む。
口内に男の指から滲んだ血がじわりと広がったが、血液が美味だと感じる吸血鬼の本能と、人として自分を粗雑に扱う男に対する嫌悪感が入り混じり、味はよくわからなかった。


「―――こ、の、クソ野郎がっ!!!」
「―――ギャッ!!!!!!」


髭面の男は醜悪な顔を怒りで歪ませてシェスを壁へと叩きつけた。


身軽で小回りがきく蝙蝠の身体は、逆を言えば人の姿より打たれ弱い。
人から外れた身は多少の怪我などすぐにふさがってしまう再生能力を持ってはいたが、しばらく血を吸っていないうえに蝙蝠姿だったシェスの身体は、シェスが考えていた以上に弱っていたらしい。
壁に叩きつけられた瞬間、ぐきりと嫌な音がして、片羽が本来曲がるはずのない方へ曲がった。
口にし難い感覚に、蝙蝠姿のままひゅっと息を呑む。


「おいバカ、やめろ!金になるかもしれない商品を傷つけるんじゃない。傷で希少価値が下がったらどうするんだ」


虫のように地面にポトリと落ちたシェスに近づいてきたのは別の男だ。
赤銅色の短く刈り上げた髪と、屈強な身体。
片目を眼帯で覆う隻眼の男。
見た目の割に、声は若い。
隻眼の男が髭面の男に勝るとも劣らない下婢た笑いを漏らしながらシェスの羽根を掴んで持ち上げる。


「……ギ…、ギギ………」


激痛に顔を顰めながらシェスは隻眼の男を見つめた。
シェスはこの男を知っていた。
知っていたと言っても互いに面識があるわけではなく、今日手に入れた情報と街の噂で知っていたというほうが正しいが。


――最近随分と素行の悪い冒険者がいて、冒険者ギルドも手を焼いているそうだ。
――ああ、あの隻眼の? 正直あまり関わりたくないわね。
――昔はまともだったらしいけど…。今じゃ見る影もないな。
――あまり詳しくないけど、ギルドの新人の子を何人かだめにしたって…。この前みかけた子も可愛そうだったわ…。ギルドの人達も担当変えてあげればいいのに。
――やめとけって。あんなでもここらじゃ発言力が強いんだ。難癖つけられたら面倒だぞ。あいつらにこき使われた今までの子は気の毒だが。ギルドもしっかりしてほしいもんだ…。


情報屋から手に入れた冒険者ギルドという存在。
ベテランの冒険者が報酬をもらって駆け出しの冒険者の面倒をみる制度。
街の噂にあがってくる素行の悪い冒険者崩れの男。
眼の前にいるのがそうなのだろう。
そして隻眼の男は最近また新人の面倒をみることになった。
噂では何人もの新人がだめにされているらしいのに、なぜ尚もこの男に新人を預けるのかシェスには理解できない。
理解しようとも思わないが。


「こいつがガキの言ってた白い蝙蝠に違いない。見ろ、目が金色とか珍しい。好事家に高く売れそうだ」
「珍しいペットがほしいとか、剥製にして飾りたいとか、いいご趣味の買い手なら掃いて捨てるほどいるからな」


隻眼の男と髭面の男はどうやら仲間のようだ。
片羽が歪んで身動きが取れないシェスを、用意していたらしい鳥かごの中へ放り込む。


「ったく、乱暴に扱うから羽根が片方まがってるだろーが。どうするんだ。治らなかったら剥製コースだぞこりゃ」
「そのクソ野郎が俺の指をかみやがったんだよ」
「指ぐらいでがたがた言うなよ。まあいい、剥製でも金眼の白蝙蝠なんてめずらしいやつなら金になるはずだ」


(このクズ野郎ども…調子に乗ってんじゃねーぞ…)


鳥かごに入れられたまま、シェスは蜂蜜色の瞳に怒気を滲ませた。
隻眼の男たちはシェスを鳥かごに入れた時点で捕獲が成功したと思っているようだが、それはシェスがただの蝙蝠だったらの話だ。
血が足りていない身体の再生速度は鈍っているが、霧に姿を変えて鳥かごから出ることぐらい造作もない。
暴れまわった後ぶっ倒れるかもしれないが、人の姿になることだってすぐにできるのだ。
できるのだが。


鳥かごの中からちらりと横たわっているノウを見つめる。
まだかろうじて意識があるノウの前で、人の姿に戻る踏ん切りがつかない。


怯えるだろうか。
もし、怯えられて背を向けて逃げ出されたら、鬼とも獣ともしれない自分は昨日まで自分を撫でて喜んでいた子供の背中を切り裂くかもしれない。
そうしたら、ベルナッタとカスペルと同じように"どうして"と自分を責めるように見つめてくるに決まっている。
それが恐ろしくて、シェスはどうしたらいいのかわからない。


それにこのまま一旦つれていかれれば、ひとまずノウはこの男二人にいためつけられないのではないかと考えていた。
現場を見ているわけではないが、この隻眼の男か髭面の男がこれまでノウに暴行を加えたに違いない。
ノウの安全を確保してから、自分にも乱暴を働いた隻眼の男たちに痛い目を見せてやればいいとシェスは考えていたが、その予定を台無しにしたのはどこにそんな力が残っていたのかよたよたと起き上がったノウだった。


「待っ、て……」


ノウが隻眼の男に縋り付いた。
シェスをどう売り捌こうか話すのに夢中になっていた男二人が、鬱陶しそうにノウを見下ろす。
ノウのくすんだ金髪にこびりついた少量の血は既に乾いていたが、覚束ない足元は、まだノウが本調子でないことを伝えてくる。
ノウが自身よりもこちらばかり心配そうに見つめているのに、シェスは言いようのないこそばゆさで耳をパタパタとさせた。


「だ、だいふく…を、つれてかないで、ください……」


次の言葉で呆れと怒りで変な鳴き声をあげそうにもなったが。


(お前、マジでいいかげんにしろよ。だいふくじゃねぇっていってんだろ!)


「なんだこいつ、いつもはハイ、ハイ頷いてばかりのくせに」
「おれの……」
「アアン?」






「おれの、ともだち、なんです…つれて、いかないで……」






「―――――きゅ…」


細い瞳の奥に怯えを滲ませながらも、ぐっと隻眼の男の服を掴んでノウが口にした言葉にシェスは白い体躯を無意識に震わせ蜂蜜色の瞳をまんまるくさせた。
木箱の傍で横たわっていたノウを見つけたときとは違う感覚がシェスの身体を駆け巡ったが、それがなんなのか今のシェスにはよくわからない。


「トモダチ? ……おいおい、聞いたか? トモダチ、だってさ!!この白い蝙蝠が!!」
「話し相手が蝙蝠だけとはなあ!雑用もまともにこなせない陰気なガキにはぴったりじゃあないか、ギャハハハ!!」


隻眼の男たちが下婢た笑いと心無い言葉でノウを精神的に嬲った。
鳥かご越しに見えるノウの顔は、酷く傷ついた様子で顔を歪ませている。
細い瞳からはじんわりと涙が滲んでいた。


シェスがいつもみているノウは泣き虫で、物陰から出てくる鼠にも驚いて涙目になるほどだ。
普段からこの男たちに罵詈雑言を投げつけられていつも泣いていたのかもしれないと思うと、腹立たしさにシェスの思考がじわじわと淀み、最近鳴りを潜めていた暴力的な衝動が歯をむき出しにして胸の内を渦巻いていくのがわかった。


「か、かえして。返してください…っ」
「誰に口を利いてるんだ、このガキ!!」
「あぐっ…!!」


尚も隻眼の男にすがりつくノウに苛立ったのか、髭面の男がノウの首根っこを掴んで乱暴に放り投げた。


(やめろ)


ノウが放り投げられた先には壁。


(やめろ、そいつ、頭を怪我してんだぞ。ガキの身体は柔らかいんだ、やめろ、おい)


まるで吸い込まれるように、ノウの身体が飛んで。
ガンッ、と鈍い音がした。


「…………ぁ…、…」
(……ぁ、…)


か細い息を口から漏らして、壁から離れたノウの小さな身体がぱたりと地面に倒れ込んだ。


「珍しく食い下がってきたな。まあ、安心しろ。この珍しい毛色の蝙蝠が高く売れたら、多少の小遣いは与えてやるさ」
「9:1ぐらいでな!もちろん1がお前だ、ハハハ、ギャハハハ!!」


シェスが入った鳥かごを揺らして、隻眼の男と髭面の男が路地裏から背を向ける。
路地裏にはノウが倒れている。


動かない。
ここ数日、自分を好き勝手に撫でては嬉しそうにしていたノウが動かない。


「―――、―――――――――」




動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。動かない。




「おい、あれ、生きてるのか?」
「あー、どうだかな。ぎゃんぎゃんうるさいから、ついぶん投げちまった」
「そろそろ、ギルドもうるさくなってきて面倒だ。一応回収しとけ」


昔、路地裏で動かなくなった、赤毛の妹分。
今、路地裏で動かなくなった、くすんだ金髪の子供。


(…死んだ。また、死んだ。死なせた。俺が)


眼の前で人の姿になることに怖気づいたせいで。
髭面の男が面倒臭そうに動かなくなったノウへ近づいていく。


「こいつもいつもどおりおとなしくいう事聞いときゃよかったのになあ。後始末する方の身にもなれっってんだよ」
「最近じゃ、ガキの面倒をみてもたいした金にならない。全部ダメにしたわけでもないのに、うるさいったらないぜ。そもそも才能も技術も器量もないガキがやってけるわけないだろうさ。散々教えてやったのに今回のガキは諦めが悪くて田舎に引っ込みやしないしな」
「じゃあこのガキは適当に事故で死んだことにして、さっさとその蝙蝠うっちまおうぜ」
「そうするか。なるべく高値でうりつ…、………」


隻眼の男の小汚い声がパタリと止む。
隻眼の男に背を向けてノウに手を伸ばしていた髭面の男が怪訝に思い振り向いた。


「……ァ?」


隻眼の男の喉から、噴水のように血が吹き出していた。


「――――、――――」


状況を理解できず隻眼の男は悲鳴をあげようと口を開いたが、口からでたのは、ひゅー、ひゅーといったかすれた息だけで、鋭利な刃物で一閃されたかのような傷口から迸ほとばしる血潮が石畳の隙間をまるで生き物のように泳いでいく。


やがて、隻眼の男はぐるんと白目をむいて後ろへ倒れ込んだ。
土気色になった顔に生気は感じられない。


「…は?」


状況が飲み込めず呆然と立ち尽くす髭面の男の周りが白く霞んでいく。
白く、白く塗り替えられていく視界に、髭面の男はぞくりとした寒気を感じた。


「な、霧…!?なんだ、おい、くそ!!何なんだ!!?くそが!!!!」


路地裏にだけ、立ち込めるその白い霧がなにか髭面の男にはわからない。
隻眼の男がもっていた鳥かごから白い蝙蝠が姿を消していることにも気づかない。


霧の向こうから、ゆっくりと人影が姿を現す。
白銀の髪と蜂蜜色の瞳が特徴的な美しい顔立ちの男だった。
常であれば、髭面の男は目の前の男に下婢た笑いで野次を飛ばしていただろう。


突然白い霧が立ち込める異様な状況でなければ。
眼の前の美しい顔立ちの男の片腕が曲がっていなければ。
片腕が曲がっている男の手に真新しい血がついていなければ。


「だ、誰だ、てめぇ!!!」


立て続けに起こる異常事態に髭面の男の瞳は恐怖に歪んでいる。


「だれ、だって?……く、ふふ、はは、ふふふ、ははははははははは、しらなかったのか、お前、しらないのか、お前?」


薄い唇から涼しげな声がころころと溢れていく。
白霧の向こうに弧を描いた月が2つ見えた。


「――この、路地裏、ばけものがいるんだぜ?」


髭面の男が覚えているのは、そこまでだった。


















夜も更けた薄暗い路地裏にシェスはいた。
ずたずたに引き裂かれ、原型をとどめていない肉塊の上に腰掛けた状態で。


「ガキはなあ、肯定してやってなんぼなんだよ、わかるか? そりゃあな、ばかやったときは叱ってやんのもわかるぜ? けどよォ…」


シェスはケタケタと嗤いながら元は人間だった肉塊へ言葉を紡いでいる。
その瞳は瞳孔が細まり暴力的な殺意が満ち溢れていて、弧を描いた薄い唇から白く尖った歯が覗いていた。


「歩くのが遅ぇから後ろから突き飛ばす?そりゃあ転ぶだろうが。んで?転んだらさっさとおきろって蹴飛ばすって?ガキがすっ転んだら起き上がるまでまってやるもんだろうが。何もできない足手まといなガキの面倒はもう見れない? まともに指導もしねぇ、何でもかんでも取り上げる、挙句の果てにはこんな薄暗い路地裏に蹴り転がして、動かなくなったらポイってかァ? おいおい、どうしようもねぇなァ??」


月明かりの下で獰猛に嗤う姿は、手負いの猛獣のように凶悪だ。


「まあ、俺も、お綺麗な聖人様じゃねぇからな。うっかり、気に食わねぇやつをずたずたにやっちまうことなんてしょっちゅうあるぜ? なにせ、巷で噂の見目麗しい化物といえばこの俺みたいなところあるしな??」


くつくつとシェスは嗤う。
月明かりに照らされた白銀の髪には隻眼の男と髭面の男の真っ赤な血がこびりついて、蜂蜜色の瞳は悪さをした子供を叱る親をみるようにやわらかく、美しく、歪んでいた。


「そう、そう。つまるところ、俺は正義気取りのいいやつぶろうとしてるわけじゃねぇんだ。あれだよ、たまたま、気がノッただけってなァ!!運が悪かったなあお前ら!!ヒヒヒ…!!」


肉塊を踏みつけてたちあがり、まるで舞台の役者のようにシェスは両手を広げて笑った。
立ち込めていた白い霧は晴れ、曲がっていた片腕はいつのまにか元通りになっている。


ひとしきり笑っていたシェスだったが、突如笑うのをぱたりとやめた。
錆びた鉄の匂いがむせ返る凄惨な現場をぼんやりと眺める顔は、先ほどとは打って変わって一切の感情が抜け落ちていて異様である。
シェスの視線の先に黄色い小さな頭が見える。
昨日まで自分を撫でて喜んでいたノウの頭だ。


「………」


椅子代わりにしていた肉塊からたちあがり、ゆっくりとそれに近づいていく。
履いているブーツが血を吸ってじっとりとしたが、今はどうでもいいことだった。
目的の前までたどり着いたシェスは、静かに顔を近づけて。


「…………ぅ、ん……」


小さな身体から漏れた声に蜂蜜色の瞳をパチリと瞬かせた。


(……………死んで、なかった)


死んでいなかった。
眼の前の子供は、ノウは、生きている。
気を失っているが、息がある。
まだ、生きている。


「……………………………」


小柄な体躯を両手ですっと抱えあげ、シェスは考えるよりも先にその場から姿を消した。
月が朧気に瞬く夜、路地裏に残されたのは原型をとどめていない二つの屍だけだった。

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