鬼が生まれるまで06※完結









―――、――ぜ―、――――に―――――――――!














―――――め―――――さ――――――――――シェ――――――。


















「…………!!」


カーラ達に見張りを任せて仮眠をとっていたシェスは、バッと目を開けて応接間のソファーから飛び起きた。
じっとりとした汗が背中に滲み、柔らかい金髪が額や頬に張り付いている。
ひどい夢を見た、気がする。どんな夢だったかは思い出せないが。
思ったより疲れが溜まっていたのかもしれない。
疲れていると変な夢をみるものだと孤児院の誰かが言っていた。




(今、何時だ。そろそろ見張りや見回りを交代したほうがいいかもな)




もしかしたらすっかり寝入ってしまったのだろうか。
ヘンリーかカーラに確認しようと思ったシェスは、周りの様子がおかしいことに気づく。


「……誰もいねぇ、な…?」


そう、応接間には誰もいなかった。
御者も、ヘンリーも、カーラも、ベルナッタも、カスペルも。
もともと裕福な人間が所有していたと思われる洋館だから応接間も広く、シェスたち六人が横になっても問題ない広さだった。
しかし部屋に誰がいるのかわからないような広さではない。
誰もいない応接間はひどく物寂しかった。


薪を燃やし尽くしてしまったのか暖炉の火は消えている。
空を覆う分厚い雲のせいで月明かりも差し込んでこない室内はとても暗いが、色の判別はともかく家具の配置がわからないほどではなかった。
明かりがなくても意外とよく見えるものだ。


もしかしてウィスプやゴーストの類が出たのだろうか。
見回り、もしくは除霊にでもいったのだろうかと思ったが、自分以外誰も、御者もいないのはおかしい。
御者は馬や馬車の扱いはともかく、あまり戦ったことがないと言っていた。
よく今まで無事だったものだ。


(ともかく、状況を確認したほうがいいよな)


ゆっくりと立ち上がって、シェスは応接間を後にした。
警戒しながら応接間を出てロビーへ足を踏み入れる。
シンッ…と静まり返ったロビーは訪れたときと何も変わらない。
訪れたときは何も思わなかったが、今のシェスにはどこか気味が悪く感じた。
暗闇に慣れたのかはっきりと内装が見えるようになっていて、よりこの洋館が退廃しているのがわかったからかもしれない。
色あせた絨毯はぐにゃぐにゃと波打っていて、埃を被ったシャンデリアは風もないのに揺れいている。
ところどころ欠けた物言わぬ調度品がじっとこちらを見ているような気がして、シェスはなるべくそちらをみないようにした。
ランタンを持ってくるのを忘れてしまったが、探索するのに支障がない程度に周りは見えている。
これだけ見えていれば問題ないだろう。


(…にしても、マジでみんなどこに行ったんだ? )


ナイフにいつでも手をかけられるようにと手を伸ばして、自分の手が虚空をつかんことに心臓が一度大きく波打った。




ナイフがない。




「―――っ!?」


寝る前まで持っていたはずのナイフがない。
慌てて自分の身体をまさぐるが、護身用に使っていたナイフがどこにも見当たらなかった。
応接間に戻って探したが自分が使っていたナイフはどこにも落ちていなかった。
残念ながらシェスにはベルナッタやカスペルのように裏拳で死霊を昇天させる能力はないし、ナイフは肉体を持たない相手には効果がないとわかっているが、それでも武器らしい武器といえばナイフしか持っていなかったシェスにとって現在は丸腰も同然だ。
焦りに汗がじわりとにじむ。


「いつ落としたんだ…。応接間にもねぇし…。予備で持ってきてた聖水でどうにかなるか?」


不浄の妖魔に絶大な効果がある聖水があればなんとかなるかもしれない。
そう思い荷物袋を漁ったが、一本念のために持っていたはずの聖水がなぜか見当たらなかった。


「…何で聖水までねぇんだよ!くそ…っ!!」


使った覚えはないのだが、荷物袋から聖水は忽然と消えていた。
おかしい。
さきほどから違和感がずっとシェスの後をついてくる。
そもそもだ。なぜ誰も起こしてくれなかったのか。
自分もおかしい、誰かが動く物音がすれば目を覚ますはずだ。


おかしい。何かが、おかしい。


違和感がシェスの中でどんどんと大きくなっていき、不安と焦燥に鼓動が徐々に激しくなっているのがわかった。


「おい、神父様!シスター!!いねぇのか!!誰か!!」


つい耐えきれずに大声で歩き回った。
誰か、誰かと合流すれば何があったかわかるはず。
もう一度洋館内を探索しようと、目を覚ましてから足を踏み入れていない一階の食堂へ足を踏み入れる。
擦り切れたテーブルクロスに覆われた長いテーブルと、高級だったであろう椅子がずらりと並んでいた。
全員で探索していたときは、こんな長いテーブルに少人数で食事を摂る必要性を感じないと軽口を叩いていたが今はそんな余裕はない。


忙しなく探索するシェスの視界の端に何かが写った。
床に座り込んでいる人影が見える。
麻でできた簡素なズボンは見覚えがあった。
御者が履いていたズボンだ。


「な、なんだ、こんなところにいたのかよ。探したぜ。大丈夫か?なあ、他のやつ、ら、は―――っ?」


微動だにしない御者に違和感を感じながら近寄ってひゅっと息を呑んだ。
御者は壁に持たれて座り込んでいる。






赤い血溜まりの中心で。






「……、…………は…?」


見開かれた眼はどろりと濁って瞬き一つしない。
近寄って確かめなくてもわかる。
御者は事切れていた。


「……な、なんで、何が…、何が……」


人の死に遭遇したのは今日が初めてではない。
孤児院で暮らしていた時、栄養失調や体調を崩してそのまま帰ってこなかった子供はたくさんいた。
でも、こんな。
こんなふうに。


こんなふうに誰かが無慈悲に殺されているのをみることはなかった。


ピエタールから出たことがなかったシェスにとって、第三者の手で凄惨に切り裂かれた人間の死体を直に見たのは始めただったのだ。


よろけて足がふらついて椅子にぶつかるがそんなことどうでもよかった。
見開かれた眼を閉じてあげるべきだったかもしれない。
目指しているだけとはいえ聖職者なのだから、祈りを捧げて清めてあげるべきだったかもしれない。
だが、そんな余裕はなかった。
その場から逃げるように食堂を早足で後にする。
食堂にはかすかに甘い匂いがした。
それが何なのか、シェスにはわからない。




―――はっ、はっ、はっ、はっ…っ




わけもわからず階段を駆け上って踊り場に到達したあたりでぐにゃりと柔らかい何かを踏んで体制を崩して倒れこんだ。
踊り場じゃなかったらそのまま階下に転げ落ちていたかもしれない。
あきらかに絨毯ではない感触に何を踏んだのか確認したシェスは、


「……ひっ……」


か細い悲鳴を漏らした。
自分が踏みつけてしまったのは人間だったからだ。
それがさっきまでともに応接間にいたはずの二人だとすぐにわかった。
微動だにしない身体がもうその二人が起き上がらないことを否が応でもシェスに理解させてくる。


「カー、ラ…。ヘンリー……」


赤い液体がじわりと擦り切れた絨毯に広がって階段まで広がっている。
血は乾いていて二人が事切れてから時間が経過していることをシェスに伝えてきた。


ヘンリーのローブはずたずたに切り裂かれていて脇腹にざっくりとした爪痕が刻まれている。
あの脇腹から出ているものはなんだろうか。
カーラの腕が本来曲がるべきではない方向へ湾曲し赤黒く変色している。
ヘンリーが持っていた杖とカーラが持っていた斧は真っ二つにへし折れていた。


二人の身体はずたずたで損傷がひどい。
しかし目を引くのは首の噛み跡だ。
何かに噛まれたような後。
もしかしたら御者の首にもあったかもしれない。
先程は気が動転して確認できなかったが。
それに気づいたシェスは息を呑んだ。


「うそ、だろ…」


ウィスプやゴーストよりもずっと質が悪い妖魔がいる可能性に血の気が引いた。
この洋館にはとんでもないものがいるかもしれない。




―――ヴァンパイア、または吸血鬼とよばれる化物。




生命の根源とも言われる血を吸い、栄養源とする不老不死の存在。
霧、狼、コウモリなどに変身する能力を持ち、魅了で人間の動きを封じたり意のままに操ることもできるという。
また戦闘能力が高い個体が多く、手練の冒険者でも討伐するのは難しいらしい。
ピエタールで親交のあった冒険者達に聞いた話でも、まともに対策を練っていない状態で挑むべき相手ではないと皆が口を揃えて言うぐらいだ。
シェスにとって吸血鬼なんて存在は、いるのかいないのかも不明瞭な空想上の化物だった。
言ってはなんだが、お城の貴族のように自分と一生関わりがない類の存在という印象が強かったのだ。


それが、ここに、いるかもしれない。


また、甘い匂いがする。
食堂でも思ったがこの甘い匂いはなんだろうか。
どこから香ってくるのかわからない場違いの匂いはよりシェスに恐怖を与えた。


「し…、シスター!!神父様!!」


最悪の事態が脳裏をよぎり、シェスは怯えを振り払うように階段を駆け上がった。


二階の談話室に飛び込んだ、誰もいない。
二階の客室に飛び込んだ、誰もいない。


(いない、いない、ここにもいない、いない、どこだ!? 嘘だろ。まさか、まさか、まさか、まさか…!!)


三階の書斎、誰もいない。
三階の寝室、ここにもいない。


あと探していないのは礼拝堂だけだ。
震える手で扉に手をかけてあける。
キィ…っときしんだ音がして扉は難なく開いた。
礼拝堂に足を踏み入れた瞬間、また、甘い匂いがした。
色あせた長椅子と小さな祭壇、ステンドグラスの窓が視界に入ってくる。
礼拝堂はシェスにとっても馴染み深い場所なのに、何故か落ち着かない。
先程から気分が優れない。見知った人間の骸を立て続けに見たせいだろうか。
ぴりぴりとした痺れるような感覚がシェスの全身を緩慢に駆け巡っている。


ここは、酷く、居心地が悪い。


視界の端にガラス瓶が落ちていたが、激しい嫌悪感に襲われ早々に視界から外す。
ガラス瓶よりもベルナッタとカスペルを探さなければと顔を上げて、教壇の近くに誰かが倒れているのに気がついて、頭が真っ白になった。


「……、あ、ぁ」


口から漏れたのは喪失感と絶望だった。
赤黒く染まったシスター服と神父服が見える。
物心ついたときからずっと見てきた服だ。
ふらふらと歩を進める度に、シェスは自分の心臓が悲鳴をあげている気がした。
確かめなければ、確かめたくない、確かめなければ。


「シスター…。神父さ、ま……」


教壇の近くで二人は事切れていた。
ベルナッタがいつもかけていた分厚い眼鏡はどこかにいってしまったのだろう。
普段寝るときぐらいにしか見られない柔らかい優しげな瞳は薄く空いていて虚ろに濁っている。


一体どんな力をかけられればそんなことになるのかわからないが、ベルナッタの左腕が肩からとれかけていた。
少し力を入れたらそのまま取れてしまいそうだな、と麻痺した思考でぼんやりと思う。
カスペルの巨体はずたずたに引き裂かれていて、赤くないところを探すほうが難しい。
首から肩にかけての損傷は特にひどく、胴体と頭部はほとんど繋がっていなかった。


「………、う……」


悪い夢を見ているようだ。
頭の奥が痺れて眼の前に広がる光景を拒絶する。
これは悪い夢だ。
目を覚まさなければ、これは夢で、目が覚めたら応接間でベルナッタたちが心配そうに自分を覗き込んで「大丈夫ですか?」と問いかけてくるのだと、背を向けて逃げようとするシェスに食堂で見た光景が、階段の踊り場でみた光景が、今眼の前に広がる光景が、責め立てる様に現実を突きつけてくる。




「……ぁ?」




―――よく見ると、見覚えのあるナイフが刺さっていた。シスターの胸元に。




「な、なんで、だ…」




物言わぬベルナッタの身体を抱き起こす。
胸元に刺さったナイフが鈍く光っている。
何の変哲もない作りだが、自分の護身用のナイフだった。
柄に彫られている名前が不幸にもこのナイフがシェスのものだと訴えてくる。


(なんで、なんで、なんで、なんで、俺の、おれのナイフが、なんで、シスターに、しすたーにささって、なんで、どこでなくした?だれがさした、おれのナイフで、なぜ、なんで)


せり上がる嘔吐感に口元を抑えた瞬間、なにかが口元にこびりついている感触がシェスを襲った。
ぎょっとして口元をこすり自分の手をまじまじとみる。


赤い。微かに、甘い匂いがする。


自分も負傷したのか。いつ。わからない。覚えていない。
理解が追いつかないシェスの視界の端でキラリと何かが光った。
ベルナッタの傍らに落ちていた手鏡だ。
シンプルながら取っ手に蔦の葉と花が掘られている洒落た手鏡だ。
たしか数年前に日頃の感謝を込めてルギオとお金をためて贈ったのものだった。
とても喜んでくれたのを覚えている。
震える手で手鏡を取る。
血の気が引いた。




そこには、化物が、いた。




手鏡に映っている化物と目が合う。
化物の首には何かに噛まれた跡があった。
柔らかい金髪は毛先が白く変色し、見開いた蜂蜜色の瞳は赤く充血してぎょろりと見開かれている。
口元に赤黒い跡がこびりついていて、弱々しく合いた口には鋭利な牙が見えた。


はっ、はっ、と小刻みに息が漏れる。
濁流のようにヘンリーたちの声が脳裏に蘇った。




―――駄目だ!彼は正気を失って、ぐっ…!!
―――あの首、まさか、噛まれたのか!?どこに潜んでいたんだ…!!


―――ああ、シェス、なぜ、こんなことに…!正気に戻ってください!!
―――、ごめんな、さい、シェス。




甘い匂いは赤い液体からしていたのだと理解した。
なぜ、灯りが一切ない室内がくっきりと視認できたのか。
それは夜目が効くようになったからだ。
さっき目についたガラス瓶が聖水の瓶だったのを思いだした。
聖水に対して激しい嫌悪感を抱いたことに気がついた。
鏡から少しずつ自分の姿が消え始める。


自分が何になったのか理解して、自分が何をしたのか思い出した。
思い出してしまった。


「あ……ああ……うぁあ……」


ベルナッタを抱いたまま、よろよろとカスペルの近くに歩いていく。
傍らにはカスペルが滅多に使わない聖銃が落ちていたが、銃は赤い血で汚れていた。


「……………、………」


ゆっくりと銃を手に取る。
今の自分が聖銃を触ったら指が焼け落ちるのではないだろうかと思ったが、この銃はすでに力を失っているようだ。
銃弾を確認した。
一発も消費されていない。
カスペルはこれを使わなかったのだ。
脳裏にひどく哀しそうなカスペルの顔が浮かぶ。
カスペルが銃の引き金を引かなかった結果どうなったのか。
激しい飢餓感と破壊衝動に突き動かされるまま、肉を食いちぎった感触をシェスははっきりと思い出してしまった。
口内に広がる甘い味も思い出してしまった。


二人のためになにかできればとついてきた。 
助けになりたかったし、役に立ちたかったし、この仕事が終わったらピエタールに戻ってまた孤児院でみんなと穏やかに過ごす毎日が戻ってくるのだと信じて疑わなかった。


神様がいるのなら、なぜ二人がこんな目に合うのだと訴えたかった。
自分はともかく、この二人はいつだって心の底から神に祈りを捧げていたのに。
なぜ。どうして。


壊れ物を扱うようにベルナッタをそっと床において、カタカタと震える手でカスペルの屈強な身体を抱き起こす。
自分より一回りは大きい巨体は、何故か簡単に抱き起こせた。
以前ならとても無理だったはずだ。
その事実がシェスの身体能力が人間からかけ離れていることを実感させた。


カスペルの身体を抱き起こした途端ぷつんと何かがちぎれる音がして。
ごとり、と何かがカスペルの身体から落ちた。
カスペルの胴体から離れたそれはもう笑うことも話すこともない。
もう二度と目を開けることはない、のだ。


(………俺が、殺した)


物言わぬ骸と化した二人の瞳よりも、自分の瞳のほうがずっと、ずっと濁っているに違いない。
自分が殺して、壊して、台無しにしたのだ。
御者も、ヘンリーも、カーラも不運に巻き込まれた被害者だ。


「……………神父様、あたま、おちたぜ。だめだろ、ちゃんと、つけてないと」


カスペルは抜けているところがあるから、頭部だけどこかにいってしまうかもしれない。
それは大変だとシェスは思った。
カスペルの屈強な身体をおいて、落ちてしまった頭部を持ち上げる。












「…、……は、はは、ハハハ…ふ、ふふ…、は、はは、」












返り血で身体が真っ赤に染まったシェスの、蜂蜜色の瞳と鋭利な牙が見え隠れする薄い唇が三日月のように歪んで笑みを作る。
ぼろぼろと頬を伝う透明な液体が地面にパタパタと落ちていく。












(神父様の、くびがとれた。あとで縫い付けて、やらないと。神父さまは裁縫にがてだしな。シスターの腕もあとで、糸まだあったっけ、いや服が汚れてるんだった。そのまえに洗濯、ああ、ほんと、世話がやけるよなァ)
















赤黒い血溜まりの中でカスペルの頭部とベルナッタの身体を抱きながら嗤うその姿は、まるで鬼のようだった。

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