硝子越しの冬(リラ、リジィ)

 

リジィとリラの幼少時代の話。

 

 
「~~♪」
 
リラメイアは人気のない渡り廊下を足取り軽く歩いていた。
緩やかなウェーブを描いた金色の髪が揺れ、大きなメガネに前髪が時折ふわりとかかる。
 
目的地へと続く廊下はしん、としていて、初めはその静かさに内心震えていたが、幾度も足を踏み入れた今では勝手知ったるものだ。
程なくして見えてきた扉に跳ねるように近づき、ドアノブを小さな手でギュッと握る。
蒼く染められた室内を覗き込めば、寝台の上に目当ての人物を見つけ、ぱあっと瞳を輝かせた。
 
「リジェさん! きたよ!!」
「…またきたのか」
 
リラメイアの弾むような声色に、寝台の上で窓の外を眺めていた人物――リジェミシュカがすっと視線を向ける。
毛先を青白く発光させた濡羽色の髪が、持ち主の動きに合わせてさらりと揺れた。
 
「そっちにいってもいい?」
「…言い終わる前に目の前に来てるだろ」
「えへへ…」
 
寝台の近くまでやってきたリラメイアが照れくさそうに笑う。
リジェミシュカは呆れたように眉をひそめたが、相手の行動を咎めたりはしなかった。
 
リジェミシュカとリラメイアは異なる母を持つ異母兄弟だ。
悪魔と契約し常軌を逸した魔力を手に入れ、闇と氷の魔術を操り日々享楽的に生きていた女性――蒼闇の魔女フローゼを母に持つ兄、リジェミシュカ。
有力な別の貴族から嫁いできた家名に恥じない高い魔力と才知に溢れる厳格な女性――メルセデスを母に持つ弟、リラメイア。
 
離れの一室で昼夜を過ごしていたリジェミシュカのもとにリラメイアが迷い込んできた結果、互いが兄弟であることを認識したのがはじまりだ。
時折様子を見に来るという名目で憎悪に満ちた視線と侮蔑の言葉を投げつけてくるメルセデスの口からリラメイアという弟の存在をリジェミシュカは察知していたが、魔女の血をひく忌み子、リジェミシュカの存在を徹底的に秘匿されて育てられたリラメイアは自らにリジェミシュカという兄がいたことをそれまで知らなかった。
 
メルセデスと異なり、リラメイアはリジェミシュカに対して畏怖も嫌悪も抱いていない。
異常なほど潤沢な魔力を身体に有し、この地域一帯では畏怖の象徴でもある黒髪を持つリジェミシュカは、リラメイアにとってはまるで絵本の挿絵から飛び出してきた存在のようで。
まるで自分が御伽噺のような特別な空間にいるような気にさせた。
 
そもそも同年代の子供と遊ぶことが少なかったリラメイアには3つ上の兄がいるということが嬉しいサプライズだったのだ。
この離れに近づくことに難色を示すメルセデスや使用人の目を掻い潜ってリジェミシュカに会いに来るというのも、何だか小さな冒険をしているように感じて楽しんでいるところもあった。
 
一方、リジェミシュカはリラメイアが一切の含みなく懐いてくることに激しい戸惑いを覚えた。
リラメイアは自分を目の敵しているメルセデスの子供だ。
なのに、この異母弟は母親の目を盗んでは自分に会いに来て他愛のない話をしてくる。
 
――あの女の差金だろうか。自分に対する嫌がらせの手法を変えてきたのだろうか。
 
始めは疑念に満ちた眼差しを向けていたリジェミシュカだったが、良くも悪くもリラメイアは正直だった、
思ったことはすぐに口に出さないと気がすまないのか、矢継ぎ早に喋り倒してはこちらの様子を伺ってくる。
3つも年が下なのだから当たり前だが、リラメイア自身が謀略を巡らせることはなさそうだと判断し、徐々に警戒をといていくことにした。
物珍しげに見つめてくる視線に居心地の悪さを感じて身じろぎはするが、そこまで不快というわけでもない。
 
「リジェ兄さん」
「いいづらくないのか、それ」
「そんなことないよ! リジェミシュカ兄さんより言いやすいよ」
「ふーん…」
「ねえ、本読んでよ、リジェ兄さん」
「自分で読めるだろ」
「魔術語むずかしいんだもん」
「僕はそうは思わない」
「じゃあ、よんで!」
 
リラメイアは気づけば寝台の上によじ登ってきている。
他人にこんなに近づかれたことがないリジェミシュカには信じられない距離感だが、リラメイアには普通らしい。
 
(周囲がそういう接し方をしているのだろうな)
 
他人事のように予想を立てながら、強引に隣にくるリラメイアに一つため息をつく。
 
「…どれだ?」
「…! こ、これ!!」
「…ふーん。僕の知らない本だ。面白そう」
 
読んでくれる気配を察知し、さっと件の本を差し出す。
本棟の書斎からもってきた魔術書だ。
リラメイアにはまだ難しい内容だったが、兄が興味を持ったら一緒に読んでくれるかもと下心満載で持ってきた一冊だ。
 
「――――、―――」
 
目論見通り興味を持ったらしいリジェミシュカが少しだけ天色の瞳を輝かせ、リラメイアからすれば記号の羅列としか思えない文章をつらつらと読み上げ始めた。
そのかすかな表情変化にリラメイアはなんだか気分が良くなって、兄の横顔をじっと見つめてしまう。
 
「とかいてある――――、……?」
「そうなんだ…。おもしろいね!」
「お前、本当に聞いていたのか? 本なんてみてないじゃないか」
「えっ、そんなことないよ!?」
 
訝しげに見てくるリジェミシュカの視線から逃れるように、リラメイアはそそくさと本へと視線を移した。
それ以上言及するつもりはなかったのか、リジェミシュカは再び朗読を開始する。
時折朗読をやめて本を見つめるのはきっと熱中して読んでいるのだろう。
自分が持ってきた本に興味を持ってくれたことが嬉しくて、リラメイアは顔を綻ばせた。
 
「これは投影系魔術の基本と応用について書かれているみたいだな」
「とうえいけい?」
「物の姿を何かの面にうつすこと」
「へー」
「わかっているのか?」
「わ、わかってるよ!」
「ふーん」
「じゃあ、壁とか地面に影みたいなものを出せるの?」
「基本はそうだな」
「影絵みたいなものだ!それなら僕もわかるよ!」
「影絵?」
「うん、使用人がたまにランプの光と手を使って壁にいろんな形をつくってくれるんだ」
「…………
 
キツネとか、カニとかつくってくれておもしろいよ!と身振り手振りで言うリラメイアは、使用人たちの態度がリジェミシュカに対してと自分に対してでは全く違うものだなんて思いもしないのだろう。
そんなこと、誰もしてくれたことがない。これからも誰もしてくれないのだろう。
何人かのメイドは多少話をしてくれたような気がしたが、いつのまにか姿を見なくなった。
 
(あの女が言うように、僕とこいつとでは待遇が違うのはいまさらか)
 
リラメイアに羨ましさを感じないと言ったら嘘になるが、淡い期待を抱くには周りの態度はリジェミシュカに対して冷え切ったものだった。
細く長い吐息が、薄い唇からゆっくりと漏れていく。
 
「…?どうかしたの兄さん?」
「…べつに、なんでもない」
「そう? でも影絵を魔法でやるっってどんな感じなんだろう。リジェ兄さんはどう思う?」
「さあ」
「もう、リジェ兄さん、ちゃんときいてよ…っ、なにやってるの?」
 
リジェミシュカの素っ気ない返事に頬を膨らませたリラメイアだったが、兄の指先が青白い光の帯を出しているのに気づいてそちらを注視する。
弟の問いかけに気づいていないのか、リジェミシュカは指先をくるくるとまわして、光の帯を細かい糸のようにちらして幾重の糸のように分けて。
それが空中に走っていくと―――。
 
「……わあ」
 
青白く発行する魔術文字が視界いっぱいに書き記された。
 
本に記された文字と寸分違わぬ緻密さで美しい文字がずらりと並ぶ様子に、リラメイアの口から簡単の息が漏れる。
詠唱もせずに難なくできるなんてすごい。
それに空中に指先に光を灯らせ文字を書き記していく様子はとても幻想的で、本の中の魔術師そのものだった。
どちらかといえば剣技とそれに魔力をのせる訓練を受けているリラメイアには、リジェミシュカがみせたそれのほうがずっと魔法らしくて心が躍る。
本の文章だけでなく挿絵もあったらもっと楽しいなと思わず思ってしまうほどに。
 
「文字がいっぱいですごい!ねえ、リジェ兄さん。挿絵は?挿絵もできるの?」
「理論上はできる」
「ほんと!みたい!!」
「……………」
「兄さん?」
「絵は、かけない」
「えっ、あっ、そうなんだ?」
 
不機嫌、というよりは苦々しいといった様子で呻くリジェミシュカに、意外な一面を見たというようにリラメイアはパチパチと瞬きをした。
描けないというが、こんなに難なく魔術で空中に文字を並べられるのだ。
謙遜しているだけなのかもしれないし、実際どんな絵を兄が描くのかみたいとおもったが、あまりわがままを言ったら遊んでくれなくなるかな…とリラメイアは我慢することにした。
(後日、リジェミシュカが折れて仕方なく描いてくれた絵をみたリラメイアが、その凄まじさに思わず泣いてしまったのは別の話だ)
 
「…ともかく、この本にかいてある内容を実践するとさっきみたいなことができる」
 
リジェミシュカが何度か手をふると、空中に浮かべられた光の文字がすぅっと消えていく。
 
「絵心があるのがいれば、応用次第で即興の紙芝居や劇をすることもできるかもしれないな」
「ほんとう?すごい!本のゆうしゃやおひめさまをうごかせたりするのかな」
「やろうとおもえばできるんじゃないか」
「そっかー。僕ももうちょっと魔法がんばろ」
「好きにすればい…っ、…けほっ……!」
「リジェ兄さん!? だ、だいじょうぶ?」
 
突然咳き込んだリジェミシュカの顔を、リラメイアが慌てたように覗き込む。
先程行使した魔術が負担になったのだろうか。顔色が普段より優れない気がする。
 
「……、けほっ…。今日は、さむくて、空気が乾燥、してる、から。喉がひきつった、だけだ」
 
リジェミシュカは一瞬戸惑うようにリラメイアに視線を向けた。
今、こいつは自分を気遣ったのだろうか。
今まで咳をしようが、熱を出そうが、声をかけてくる者なんてほとんどいなかったからどう応対していいのかわからない。
まあ、死なれては困るのか、体調が著しく悪化すると白衣を着た初老の男(たぶん医師というものだ)が、部屋に訪れることはあったが。
 
「喉、いたいの?」
「痛い、ほどじゃな…」
「あっ!そうだ!!まって!!」
 
リラメイアがごそごそとポケットに手を入れて何かを探し始めた。何をしているのだろう、とリジェミシュカは喉の乾燥を和らげようとつばを飲み込みながら様子をうかがう。
 
「あった!」
「…飴?」
 
リラメイアが取り出したのは数個の飴玉だった。
さらりとした包み紙にイチゴの絵がのっているそれは飴玉だというのに高級感がある。
 
「いちごのアメだよ。おいしいアメで有名なお店のだって。リジェ兄さんにあげる!」
「ふーん…」
 
勢いよく差し出した飴玉にゆっくりとリジェミシュカの手が伸びてくる。
自分より3つ上のはずの兄だが、自分との体格差はほとんどない。
むしろ躓いたら大怪我するのではないだろうかと思うぐらい心もとない身体が揺れる。
か細い手が包装紙をかさりと開けるのを見守った。
 
はじめのころは一緒に食べようよ!といってリラメイアがお菓子を持ってきても頑なに受け取ってくれなかったが、最近少しだけ口にしてくれるようになった。
あまり美味しそうに食べてはくれないのだが、それでも多少はこちらに意識を向けてくれているのだと思うとリラメイアは嬉しかった。
 
……きにいってくれるかな)
 
苦手な味でなければ少しだけあの天色の瞳を輝かせてくれるのを知っているので、リラメイアはじっとリジェミシュカの様子を伺う。
――まさか、予想以上の反応が帰ってくるとは思いもしなかった。
 
「……、おいしい」
「……………………………………
 
口の中に飴を含んだリジェミシュカの瞳がぱちりと一度大きく開いた。
常であれば疲労が滲んで眠たげに伏せられている天色の瞳がよく見える。
いや、それよりも。
 
(わらった…。リジェ兄さんが)
 
衝撃が強すぎて思わず真顔で固まってしまう。リジェミシュカはコロコロと飴玉を口の中に転がすのに夢中らしくリラメイアの様子には気づかない。
 
「…イチゴ、のほかにも甘い味がするな」
「ミルクかな…たぶん…」
「ふーん…おいしい…」
 
(わらった…。いまわらったよね?兄さんわらうんだ。飴すきなのかな)
 
予想していなかった心地よい反応に、思わず言葉を失って所在なさげに視線を彷徨わせる。
 
「……? どうかしたのか」
「う、ううん。なんでもない。それ、気に入ったの?
「…すこしだけな」
 
そう言いながらもう一つ包装を開けているのは食が細いリジェミシュカからしては珍しい。きっと気に入ってくれたのだ。
 
「お前はたべないのか?」
「た、たべる!さっきもたべてきたけど!」
 
リジェミシュカの問いかけに、弾かれたように自分も口に放り込む。
リラメイアはリジェミシュカに全部飴をあげてもよかったが、そんなことをすれば途端この兄は食べるのをやめてしまうだろう。
 
”食べたら身体に害があるものが入っているかもしれないからたべたくない”
 
差し出したお菓子を頑なに受け取ってくれなかった頃に言われた言葉を思い出す。
初めて言われたときは絶句したものだ。
だって、リラメイアには使用人も料理人も母も父も優しい。
食事は美味しいものがたくさん出てきたし、食べてお腹を壊したことなんてない。
体に悪いものなんて入ってないよ、といったが、兄の態度は一向に軟化しなかった。
だから自分も一緒に食べるようにした。
何度も繰り返して、ようやく手を伸ばしてくれるようになったのだ。
 
無意識にポケットの中を探るが、イチゴの飴は残り少ない。
ここに来る前に何個か食べてしまったせいだ。
――ああ、こんなに喜んでくれるなら。
 
 
 
 
 
 
 
(もっと、もってくれば、よかったなあ)
 
 
 
 
 
 
うっすらと顔をほころばせているリジェミシュカにリラメイアは幼心ながら後悔の念を抱いた。
肌寒い季節の昼下がりのことだった。

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