惑う天色(リジィ)

 

リジィの幼少時代の話。

 

寒々しい部屋だった。

真っ白な壁、赤い絨毯、薪がくべられていない煤けた暖炉。 
それらが何か薄い膜で覆われているかのように青みがかっている。 
うっすらと青みがかった室内には、様々なジャンルの本が整然と並べられた本棚、天蓋付きの巨大なベッドが一つ。 
ベッドの近くに置かれたサイドテーブルの上に置かれたランプが、控えめに室内に明かりを提供している。 
清潔なシーツが擦れる音がして、小さな人影がベッドの上に姿を現す。 

それは、品の良いルームウェアをまとった少年のようだった。 
肩に触れる程度の長さがある指通りのよさそうな髪は、夜空を切りとってきたかのような濡羽色をしていた。 
加えてうっすらと毛先が青白く発光するさまは、人工的に作られた人形のような異質さを感じさせる。 
目尻が垂れた瞳は鮮やかな天色をしていた。 
ルームウェアから除く手足は細く、白い。 
浮かんでいる表情は疲労に滲み、作り物めいている顔立ちは性差が曖昧だ。 


「…今日は、さむい」 


ベッドの上で上体を起こした少年――今年で九歳になるリジェミシュカ・フローゼ・アンロリッシュは、けほっと小さく咳をこぼしながら室内を眺めた。 

リジェミシュカは有力な貴族でもある魔剣士一族、アンロリッシュ家に産まれた。 
しかしその生い立ちは複雑だ。 
アンロリッシュ家は代々別の有力な貴族でも魔力が高い者を迎え入れ後継者を産み育てていく。 
アンロリッシュ家現領主、イルディス・リブラ・アンロリッシュもまた、メルセデスという女性を正妻として迎え一人の息子をもうけた。 
…結論から言えば、その子供はリジェミシュカのことではない。 
リジェミシュカを産んだのはメルセデスとは別の女性だった。 
名はフローゼ。艶のある濡羽色の黒髪と青と緑の異なった色を宿した瞳を有す、浮世離れした容姿。 
闇と氷の魔術を操り、日々享楽的に生きていた女。 
あるものは美しいと心を奪われ、あるものは違和感とともに恐怖を抱く、見るものによって印象がコロコロ変わる得体の知れない存在。 
悪魔と契約し常軌を逸した魔力を手に入れた、人間性を疑われるような立ち振舞をしていた蒼闇の魔女フローゼ・ジギタリス。 
リジェミシュカは魔女の子供だったのだ。 

アンロリッシュ家が統治する土地は、流れ行く歴史の中で幾度か魔女によって多大な被害を受けたことがある土地だったため、魔女という存在に対して排他的だった。 
にも拘らず、イルディスがなぜ魔女であるフローゼとの間に子供を設けたのか。 
それはイルディスとフローゼにしかわからないことだ。 
フローゼはリジェミシュカを産んだ後何処かへと姿を消し、イルディスのもとにはリジェミシュカだけが残された。 

常軌を逸した魔力はリジェミシュカへと引き継がれ、身に有り余る魔力はリジェミシュカの心身の負担になっている。 
生まれつき食が細かったのに加え、強すぎる魔力に翻弄されているリジェミシュカの身体は発育が遅れ、年の割に小柄で弱々しい。 
また本人の意思に関係なく、一時的な感情の爆発に呼応するように魔力が溢れ周りに危害を及ぼすのだ。 

この地域ではめったに見られない黒髪と相まって、リジェミシュカは使用人には気味悪がられていた。 
最低限の世話をするとそそくさと距離を取られるほどに。 
父であるイルディスもフローゼに生き写しのリジェミシュカに愛情はあったようだが、自身よりも強い魔力をもつ息子を持て余したのか、一室に十分な調度品を揃えリジェミシュカの魔力が暴走しても耐えきれるよう耐久強化の術を施し、時折様子を見に来る程度だ。 

それからもう一つ。 

メルセデスが産んだ子供よりも先に、リジェミシュカが生を受けてしまったのが問題だった。 
もともとメルセデスは魔女という存在を毛嫌いしていたが、イルディスが連れてきた女性が魔女だったこと、その女性が自分よりも先に子供を設けたことは、先天性の魔力の高さに胡座をかくことなく、絶え間ぬ努力を重ねてアンロリッシュ家に嫁いできたメルセデスのプライドを踏みにじるには十分すぎるほどで。 
イルディスに当たり散らすことはなかったが、魔女に対する嫌悪感と憎悪はとどまるところを知らず、フローゼが姿を消した後、その矛先はすべてリジェミシュカへと向けられた。 
物理的な危害を加えることはほとんどなかったが、時折顔を合わせることがあれば憎悪に満ちた視線を向け、その場にイルディスがいなければ「汚らわしい魔女の子供とくらさねばならないなんて。忌々しい」と侮蔑に満ちた言葉を投げつけてくる。 

腫れ物に触るように遠巻きに見てくる使用人。 
憎悪に満ちた眼差しを向けてくる女、メルセデス。 
本や玩具をおいてしばらくすると立ち去る父、イルディス。 
人外じみた魔力を有したせいで著しく弱っている身体は、部屋の外にでても数歩歩ければ良い方で。 

窓の外には自由を謳歌する鳥の声と庭一帯に広がるバラの花が柔らかい日差しを享受し、どこから入り込んだのか野うさぎが陽の光を浴びて元気に駆け回っている。 


(…僕とは大違いだ) 


自分が異物だと突きつけられるような気持ちにさせられるこの家は、リジェミシュカにとってまるで「牢獄」のようだった。 


「…、……」 


きょろっと室内を見渡す。サイドテーブルの上に置かれた水差しはまだ冷たい。自分が寝ている間に使用人が取り替えていったのだろう。 
リジェミシュカが起きているときに入室したがる使用人なんてほとんどいない。 
魔力の暴発に巻き込まれるかもしれないと不安を抱く者がほとんどだ。 
いつ爆発するかわからない爆弾の傍に常にいたいと思う人間などそれこそ常軌を逸しているのだからその考えは正しい。 
だからリジェミシュカは特に不満も寂しさも感じなかった。 
傍らに今着ているのと寸分違わないつくりのルームウェアが用意されていた。 
他の着替えはない。 


(…確かに僕はこの部屋から殆ど出ないのだから、ルームウェア以外必要ないか) 


新しく用意された肌触りの良いルームウェアに袖を通し、柔らかい寝所からゆっくりと這い出て絨毯へと足をおろした。 


「そういえば、父様が新しい本をおいていくと言っていたな。…父様、か」 


脳裏に一人の男の姿を思い浮かべる。 
時折リジェミシュカのもとを訪れては色々なものをおいていく男の名はイルディスと言って、自分の父親だという。 
父親だと言われてもあまり実感がわかないが、父親なのだと言われればそうなのだろう。 
最低限の暮らしを保証してもらっているのだから特に文句はない。 
メルセデスと違ってイルディスは侮蔑のこもった言葉を投げつけてこない。 
それだけでも十分だった。ただ、少し億劫なことが一つ。 


「すまない、フローゼ。すまない…」 


イルディスが時折顔を覆いながら俯いて、リジェミシュカに対して謝罪の言葉をつぶやいてくるのだ。 
フローゼ。自分の名前にたしかにその単語は含まれている。 
だが、イルディスが言っているフローゼが自分のことではないのは歴然だ。 
フローゼに似てきたな。と言われるたびに、言いようのない虚無感がリジェミシュカを苛んでいるのを、きっと眼の前の男は知らないのだろう。 


(…違うのに) 


胸の奥がざわめく。 


(僕は、フローゼという魔女じゃ、ないのに) 


脳裏に浮かび上がる訴えが、そのまま音として外に出ることはなかった。不平不満を述べて、もしイルディスの機嫌を損ねれば、この生活すらも取り上げられるかもしれない。ならば何も言わないほうが良い。ただ、代わりに謝罪の言葉を受け取るだけだ。それだけだ。 


「父様」 
「…………」 
「母様はきっと怒ってないよ」 


自分を産んだ母の顔もまともに覚えていないリジェミシュカの言葉に説得力などなかったが、フローゼに瓜二つらしい容貌の息子からかけられる言葉はイルディスの心を安らげる効果があるのだろう。 
……たとえその顔に一切の感情が浮かんでいなくても。 

ふと、我に返りそっとため息を付いた。 
本棚へ近づいて、新しく用意された本を一冊手に取る。 
リジェミシュカは本が好きだった。 
たとえ欠陥だらけの身体でも、一度表紙をめくればリジェミシュカは色んな場所の景色を文字とともに感じることができるのだ。 
塩味の水がどこまでも広がる海、様々な樹木や木のみが生い茂る山、遥か遠くでこことは異なる文化が息づく街を自分のペースで思い描いて楽しめる。 
体調がいいときは、まだ見ぬ世界へ想いを馳せて、空想上の景色を魔術で投影して遊ぶこともあった。 


「…見てみたいな」 


ふっと口元が緩む。他人との交流をほとんど許されていないリジェミシュカは、空想の世界に浸っているときだけ、穏やかな気持ちで笑えた。だから、本という娯楽を与えてくれたことに関してはリジェミシュカはイルディスに感謝している。 
新しい本を両手で抱えて、先程まで横になっていたベッドの上へ戻る。 
椅子の上で読んでも良かったが、時折気分が悪くなりベッドまで戻れないまま意識を失うことが何度かあったので、最近は殆どベッドの上で過ごしていた。 
厚い表紙をゆっくりとめくる。 
この本はどうやら寓話をいくつか集めたもののようだった。 
図鑑や魔術書を読みたいと思っていたが、物語も嫌いではない。 
リジェミシュカは目の前の娯楽にじっくりと没頭することにした。 







「……ん?」 


魔力探知に鋭敏なリジェミシュカの身体が、赤く燃え上がるような光と炎の魔力を感じ取った。 
リジェミシュカの魔力は、フローゼと同じ闇と氷に強い適性がある。そこにイルディスの血が混じったことにより、炎も扱えるが纏う色は蒼く、アンロリッシュ家の赤き炎とは系統が異なった。 
相反する魔力というのは基本相性が悪い。気分が優れなくなったり、体調に影響を及ぼしたり。いいことはない。 
正直なところ、アンロリッシュ家を包む魔力はリジェミシュカにとって居心地の悪いものだった。 
家全体を覆う魔力よりもリジェミシュカの魔力のほうが強いため飲み込まれることはなかったが、仄かな息苦しさを感じてめまいを覚えることはある。 

それに、リジェミシュカはこの魔力に覚えがあった。 
アンロリッシュ家現領主イルディスの正妻、メルセデス。 
あの女の魔力だと気づいて、リジェミシュカは辟易とし、それから微かな恐怖を抱いた。 


(また、何か言いがかりをつけに来たのか…) 


疲労をにじませた表情を相手に気取られないよう押し隠し、感情という感情を削ぎ落とす。 
弱みを見せれば、正妻といわれているあの女にどれだけ精神的苦痛を与えられるかわかったものではない。 
正直視線すら向けたくなかったが、そんな態度を取ればあの女は激昂し、さらに罵詈雑言をなげつけてくるのだろう。 
いっそこんな欠陥だらけの身体ならば、聴覚すらまともでなくてもよかったのに。 


(……もう、放っておいてほしい) 


メルセデスと相対する度に、リジェミシュカの何かはささくれだって摩耗していった。直接危害を加えられることはないが、目の敵にされ、幾度も幾度も投げかけられる言葉の刃は、リジェミシュカがいくら平気を装っていてもたしかに柔らかい部分を切り刻んで抉っていくのだ。 
嫌だ、嫌だと思うリジェミシュカをあざ笑うように、感じ取れる魔力が強くなってくる。 
そこで微かに違和感を覚えた。 


「足音が、軽い…?」 


メルセデスの歩き方ではない。訝しげに扉の向こうを見つめる。 
キィ…と音を立てて扉が開き、足音の主がそろりと顔をのぞかせた。 


それは、品の良い洋服を身にまとった少年だった。 
緩やかなウェーブを描く金色の髪を赤いリボンでひとつ結びにして、釣り気味ではあるが愛嬌のある瑠璃色の瞳がきょろきょろと室内を見渡して、リジェミシュカと目があった。瑠璃色の瞳はメルセデスの真紅の瞳と異なっていたが(イルディスの瞳の色が瑠璃色なのでそちらに似たのだろう)、顔の造形はメルセデスの面影が濃い。 


「…誰だ、お前」 


あの女の面影を感じた時点で、目の前の子供が何者なのかリジェミシュカにはわかっていたが、尋ねずにはいられなかった。 
かぼそい呼吸とともに、訝しげな声で来訪者へと言葉をかける。 
天色の瞳が瑠璃色の瞳を射抜いて、静かな緊張感が部屋を満たした。 
問いかけられた少年はぱちぱちと何度か瞳を瞬かせ、慌てたように問いかけに答えた。 


「えっ、ええと、僕? 僕はリラメイアだよ あなたはだれ?」 
「……」 


メルセデスがたまに口にしていた名前だ。予想は確信へと変わる。 


(そうか。これがあの女の子供。僕の、腹違いの弟) 


他にも訪ねたいことがあるのか、リラメイアと名乗った少年からは好奇心に満ちた視線が飛んでくる。 
あまり向けられたことがない視線に戸惑いを隠せない。 


「…僕は――」 


けれど、会話が成り立つのは悪い気分ではなかった。 
口に出す機会などほとんどなかったそれをリジェミシュカはリラメイアに告げた。 


「僕は、リジェミシュカ。リジェミシュカ・フローゼ・アンロリッシュ」 














どう接していいかわからないリジェミシュカのもとに、リラメイアがちょくちょく顔を出しに来るのは少し先の話。

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