小さな夜を見つけた日(リラ)

幼少時代のリラの話。

 

長い渡り廊下に並んだ窓から明るい日差しが差し込んでいる。
使用人に気付かれないようにこそりと足を忍ばせて、赤い絨毯が敷かれた柔らかい床の上を歩く小さな人影。
それは、品の良い洋服を身にまとった少年のようだった。
緩やかなウェーブを描く金色の髪を赤いリボンでひとつ結びにして、釣り気味ではあるが愛嬌のある瑠璃色の瞳を好奇心に輝かせ、たまにずり落ちるメガネを直しながらきょろきょろとあたりを見回している。
小さな人影の正体――今年で六歳になるリラメイア・ファルファラ・アンロリッシュは広大な屋敷の中をわくわくしながら探検していた。


「こっち、まだきたことないや。僕のおうちって色んな場所があっておもしろいなあ」


リラメイアは有力な貴族でもある魔剣士一族、アンロリッシュ家に産まれ、次期領主としての英才教育を受けながらも甘やかされて育てられてきた。こうして勝手に屋敷内をうろついても、母であるメルセデス以外にはめったに咎められない。


有力な別の貴族から嫁いできたリラの母、メルセデスは家名に恥じない高い魔力と才知に溢れる厳格な女性だった、
アンロリッシュ家現領主である、イルディス・リブラ・アンロリッシュもまた才覚あふれる物静かな男性であり、リラメイアは厳しくも愛情を注がれて育てられ、結果、リラメイアは使用人には我儘をいったり、自分本意に考えたりもするが、それなりに他人を気づかえる素直さを持った子供に育っていた。


「今日のごはん、おいしかったなあ。料理人にちゃんと美味しかったって言ったほうがいいよね。また作ってもらいたいし」


思わず鼻歌を口ずさみそうになり慌てて両手で口を覆う。
実を言えば、リラメイアは剣術の稽古から抜け出してきたのだった。
手には木刀が握られたままだ。
メルセデスに怒られるかもしれないが今日は乗り気じゃなかったし、明日頑張ればいいよね、なんて自分を甘やかす。
使用人やイルディスは、嗜めるように小言をつぶやきはするが、最終的には仕方がないと見逃してくれるのをリラメイアは知っている。


愛想よく相手をしてくれる使用人。厳しくも自分を第一に考えてくれる母、メルセデス。リラメイアの話を物静かながらゆっくりきいてくれる父、イルディス。
屋敷の庭には手入れされた薔薇が咲き乱れ、時々小鳥が飛んでいるのをみかける。
まるで自分が世界の中心になったような気持ちにさせられるこの家は、リラメイアにとっては自分の「お城」のようだった。


「…あれ?」


てくてくと歩き回りながら、リラメイアはふと視界の端に移った扉に違和感を感じた。
このあたりはまだ来たことがない場所だ。
初めてきた場所に違和感を感じるというのもおかしな話だが、生まれつき魔力が高く素晴らしいと言われていたリラメイアの感覚が扉の向こうから感じる違和感を確かに伝えてくる。
ドアノブに手をかけて空いた隙間から顔を覗かせる。
屋敷の中をこっそりと探検するぐらい好奇心が旺盛な年頃だ。
躊躇するという考えはなかった。

眼前には自分が歩いていた場所より細い渡り廊下。
明かりが差し込む窓はなく少しだけ薄暗い。
薄暗い場所が苦手なリラメイアはふるりと体を震わせながらじっと先を見る。


「…もしかして、もういっこのたてものにつながってるのかな?」


アンロリッシュ家は魔剣士の一族としても有名だが有力な貴族でもある。
広大な敷地に建てられた家は屋敷といっても過言ではなく、本棟と呼ばれる場所の他にも別棟と呼ばれる場所があった。

――後から知ったことだが、別棟に続くこの扉は屋敷の一部の者にしか見えないようになっていたらしい。
本来リラには見えないように隠蔽の術が施されていたようだが、成長するに連れて隠蔽の術を無意識に見破ってしまう程度にはリラの魔力はつよくなっていたらしく、はっきりとその扉を視認してしまったのだ。
そわそわとリラは新しく現れた渡り廊下に足を踏み入れる。
脳裏には母であるメルセデスとの会話が過っていた。




「かあさま。僕の家ってとてもひろいね」
「そうですね。私達は領地を治めるものとして、領民を導く義務と、象徴になる権利を持っているのです。あなたもアンロリッシュ家の次期領主であることを自覚し、自己研磨を怠らないようにしなさい」
「…はーい。あっ、そういえばね、とうさまがメイドとはなしていたんだけど、べつむね?ていう場所があるの?」
「…、……別棟ですね。ええ、ありますよ」
「べつむねってどんな場所? なにかおもしろいものがある?」
「…、……」
「かあさま?」
「貴女が気にする必要はありません。あの別棟は穢れているのです」
「汚れてるの? お掃除したらいいのに」
「…そういうことではありません。いいですか、リラメイア。あの別棟は旦那様の慈悲によって成り立っている場所なのです」
「? うん」
「私はあなたに悪影響を及ぼすものは排除したいのですが。忌々しい…。いいですか、リラメイア。あの離れには…」












――人を誑かすおそろしい魔物がいるのです。だから近づかないように。












メルセデスは厳格であまり表情を崩さない理知的な女性だったが、その時の彼女の表情は憎々しげに歪み、真紅の瞳の奥には炎が揺らめいているようだった。
並々ならぬ母の表情にリラメイアがすこしだけ怯えを抱いてしまうほどに。
そんなに恐ろしい魔物が自分が住んでいる家にいるのだろうか。
なぜ父も母も退治しないのだろうか、とリラメイアは内心首を傾げたが、よほど強い魔物なのかもしれない。


リラメイアはどちらかというと怖がりな子供だった。
夜、ふと目が覚めたときの人気がない世界。明かりの消えた廊下。静寂と暗闇に包まれた家は普段とはまるで別の世界のようで。
使用人が面白半分に話をした亡霊の話を耳に挟んだときは、怖くて怖くて眠れなかったこともあった。
常であれば、このまますっと踵を返してメルセデスやよく相手をしてくれる使用人の腕の中に飛び込んでいただろう。


ただ、先日魔術の教師と剣術の教師に褒められたばかりのリラメイアは、このときすこしばかり天狗になっていた。


「そんなにこわい魔物がいるなら、僕がやっつければいいんだ!とうさまも、かあさまも、みんなも、すごいねって僕のことを褒めてくれるかも」


まだ陽の高い時間。魔物は夜のほうが強いと本には書いてあった。
リラメイアは怖がりではあったが、絵本に出てくるヒーローに憧れてもいた。
外で遊びたい盛りのリラメイアは難しい歴史の本が嫌いだったが、物語、特に冒険譚を読んだり読んでもらうのはとても好きだった。
子供向けの読みやすい文体にとたくさんの挿絵を眺めるのが好きだった。
こんな本が読みたいと、父であるイルディスにねだれば、大抵の本は買い与えてくれた。
イルディスは同じ本を何故か二冊購入していたが、リラメイアが理由を尋ねても静かにはぐらかすばかりだったのはきになったが。


リラメイアは色んな物語の主人公に自分を重ねて楽しんだ。
あるときは囚われのお姫様を助ける勇者、あるときは勇敢にドラゴンと戦う騎士。
物語の中に登場する人物は色んな容姿、性格をしていて、リラメイアの好奇心をそれは強く刺激した。
リラメイアは自分の住んでいる家に不満をいだいたことはないが、物語に出てくるような服装の人物や動物をみることができたらいいのになあと思っている。


「…ドラゴン、見てみたいな。要請や魔女って本当にいるのかな。とうさまやかあさまが使ったこと無いような魔術も使えるのかな」


物語にも時折出てくる魔女や妖精は魔術を使って、主人公を惑わせたり、時には助けたりする。
物語の中の魔術は色んな可能性に満ちていて、自由自在に魔術を行使しながらストーリーを彩る存在はリラメイアの好奇心やあこがれをそれは強く刺激した。
リラメイアも魔術を学んでいる身ではあるが、両親のように自在に操れるようになるのはもっと先だろう。


「そうだ、魔女といえば! とうさまがたまにしてくれる魔女の話、また聞きたいなー」


イルディスが極稀に話してくれる魔女の話もリラメイアにとって楽しみの一つだった。
イルディスが話す魔女は、リラメイアがみたことがないような不思議な髪色をしていたので、きっとイルディスがリラメイアのために考えてくれた空想上の魔女なのだろうが、話に出てくる魔女は自由奔放でちょっと困った性格の女性だったが、登場人物として聞く分にはとてもおもしろい存在だった。


「とうさまのおはなし、楽しいね!まるで本当にいる人みたい!!」
「…ああ。そうだな」


イルディスは穏やかな表情を浮かべて履いたが、どこか遠くを見ているように静かにため息を付いた。
イルディスが最近仕事が忙しかったのをリラメイアは思い出した。
仕事で疲れていたのかもしれない。
疲れている父に話をねだってしまってリラメイアは申し訳なくなってきた。


「…? とうさま、どうしたの? おはなしするのつかれちゃった? ごめんなさい…」
「いや…。いや、そうじゃない。だが、そろそろ仕事をしなければならないからな。またそのうち話をしよう」
「うん! んっと、かあさまにはお話しないほうがいい?」
「…ああ」


メルセデスは魔女という存在がたとえ空想の話でも嫌いらしく、本の中に魔女が出てくるだけで嫌な顔をした。
だからリラメイアはメルセデスにはあまり魔女の話をしないように気をつけていた。
イルディスもメルセデスの前では一切魔女に関する話題を出さないので、妻であるメルセデスが嫌な顔をするのを知って気を使っているんだろうなとリラメイアは思っている。


通路を抜けて、人気の少ない別棟を歩き回る。
父や母との会話を思い出しながら歩くリラメイアの前に、一つの扉が目についた。
何の変哲もない扉だ。
強いて言うなら、個室によく設置されている扉ということぐらいだろうか。
しかし、リラメイアの中で、この先に何かがあると漠然とした思いが浮かび上がってくる。


「ここに、魔物がいるのかな…」


魔物がいるというには、些か心もとない扉だが、もしかしたら件の魔物は封印されているのかもしれない。
ごくり、と唾を飲み込んだ。いったいどんな魔物がいるのだろう。
恐る恐るドアノブに手をかけながら、木刀をぎゅっと握りしめる。
キィ…と音を立てて扉が開き、部屋の中が少しずつ見えてくる。
そこは―――、


「…、…わ…」


とても蒼い場所だった。室内が青白い光で埋め尽くされる。
天井も床も壁も家具も青白い光で覆われた様はまるで別世界のようだった。

アンロリッシュ家は光属性と炎属性に特出した魔術と魔剣を扱う一族だ。
だからなのか、赤と金色を主体とした家具や内装を好む傾向があり、リラメイアが普段暮らしている本棟でもふんだんに赤と黄色の装飾が施されている。
勿論他の色が使われていないというわけではない。
ほんのアクセント程度であるが、青や緑など別の色も使われていることもある。
ただ、この部屋は異常なほどに蒼色に満ちていた。

部屋全体はリラメイアの寝室と同じくらいの広さだろうか。
小さなランプが控えめに灯っている。
壁の一面に本棚が立ち並び、ぎっしりと埋まった本の背表紙が見えた。
人が三人並べそうな寝台は豪華な装飾が施されている天蓋と真っ白なシーツで覆われている。


(あ、誰か、いる…!)


自分と同じくらいの小さな人影が見え、リラメイアはようやく自分以外の存在がこの場所にいることに気づいた。
部屋に圧倒されていたリラメイアが恐る恐ると人影のほうへ視線を向けて。

その姿に、部屋以上に圧倒されることになった。

寝台にいた小さな人影は自分と対して変わらない姿をしていたが、その髪の色は本の挿絵でしかみたことがない色だったからだ。






(――黒い、髪だ。はじめてみた)






屋敷には両親の他に使用人がたくさんいる。リラメイアとリラメイアの両親の髪は輝くような金色、使用人の髪はチョコレートのような茶色であったり、洗いたてのシーツのように真っ白だったり(真っ白なのは高齢の使用人が主だった)がほとんどだった。


(とうさまが時々話してくれる魔女と同じ髪の色だ)


イルディスの話す魔女の髪の色は、艷やかな濡羽色の髪を持っていた。
そんな髪の色をした人間をリラメイアは見たことがなかったので、父の空想上の存在なのだろうとずっと思っていたのだ。


もしかして、自分はいつのまにか父の空想の中や物語の中に迷い込んでしまったのだろうか。
未知の存在に遭遇した興奮が冷めないまま、リラメイアはじっと寝台にいる人影を見つめた。


夜の帳のような濡羽色の髪の毛先はうっすらと青白く光っている。
髪は肩につくかつかないかといった長さだろうか。
白い服はルームウェアだろう。リラメイアが就寝するとき着る服と大差ないように見えた。
袖からのぞく手は細く、白い。
天色の瞳はリラメイアの瑠璃色の瞳よりも青々としていて、ガラス細工のようにつくりものめいている。
眼の前の人影が、リラメイアに声をかけてこなかったら、大きな人形かと思ったかもしれない。
それぐらい、目の前の人影は生気がなかった。


「…誰だ、お前」


かぼそい呼吸とともに、訝しげな声が寝台の上にいた人影である少年から漏れた。
天色の瞳が瑠璃色の瞳を射抜いて、静かな緊張感が部屋を満たす。


「えっ、ええと、僕? 僕はリラメイアだよ あなたはだれ?」


ここでなにしてるの? その髪って本物? 
訪ねたいことが次から次へとリラメイアの頭に浮かんだが、言葉にできたのは一つだけだった。
突然の来訪者に警戒を滲ませていた天色の瞳が揺れる。


「…僕は――」


ぽつりと溢れた声は戸惑いに満ちていたが、やがてそっとリラメイアが求めていた答えを呟いた。








「僕は、リジェミシュカ。リジェミシュカ・フローゼ・アンロリッシュ」


















寝台の上にいた少年――リジェミシュカ――が自分の腹違いの兄だとリラメイアが知るのはこのあとすぐ。

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