夜明けの星14

真っ暗な夜だった。

星のみえない暗い暗い夜だった。
薄い雲の向こうに見える三日月のように蜂蜜色の瞳と端正な顔立ちを歪めて、シェスは街から少し離れた森の奥に立ち尽くしていた。
月の光も届かない昏い森の樹々が、さわさわと冷たい風で葉を揺らして、茂みの向こうでがガサゴソと夜行性の獣がうごめく音が聞こえる。
シェスに襲いかかってこないのは、きっと無意識ながらも危険を察知しているからだろう。

 

「………、………」

 

傍らにはいつもひよこのようにシェスのあとを付いてきていたノウの姿はない。
シェスがノウの首に衝撃を与えて気絶させ、狭間の追憶亭の床に転がしてきたからだ。
ベッドの上に置いてからくるべきだったかもしれないが、そんな余裕はあのときシェスにはなかった。
そのうち亭主が様子を見にくるか、ノウ自身が目を覚ますだろう。
怪我はさせなかったはずだ。後遺症も多分残らない。シェスはできるだけ手加減したのだから。

まだ手加減ができる程度には理性が残っていたのは不幸中の幸いだった。
なにせどうやったか覚えていないが、シェスは鬼と化したあの日、大事な何かを自らの手でバラバラにしてしまった。
つまり、そういう人の理から外れた力を手にしているのだ。
我を忘れて力を込めれば、まだ成長途中の幼いノウの身体を簡単にバラバラにできるに違いない。

 

「………、………」

 

ゆらゆらと身体を揺らしながら森の中を歩く。
先程こびりついた口元の紅い汚れを拭う気も起きない。

 

(………まさか、山賊に出くわすとはなァ。ちょうどよかった。いいとこにいた。まあまあうまかった)

 

夜闇に白銀の髪を揺らして、蜂蜜色の瞳を三日月の形に細める。
下卑た笑いで自分を取り囲んだ山賊たちを見る目は、ホルドナで蝙蝠姿のシェスを捕まえて売り払おうとし、その際ノウに暴力を奮った男たちと同じ目をしていて、大変不快に感じた。
白い蝙蝠の姿でも、多数の人間が振り返る人の姿でも、面倒な視線や反応はあるものだが、「高く売れそうだ」とか「おとなしくしていれば殺しはしない」なんて取り囲んだ男たちが言ってくれば、随分と甘く見られたものだとシェスは一周回っておかしくなったし、腹立たしさも一層増した。

 

(馬鹿な奴らだ。俺がなんなのかわかりもしねぇで。…あー?いや?途中で気づいたやつがいたな? くそみたいなことしてきやがってよォ。片腕がじくじく痛みやがる…)

 

途中でシェスの正体に気づいた一人が、恐怖にかられて聖水を投げつけてきたのには内心ぞっとしたが、少々引っ掛けただけで済んだのでこちらの致命傷には至らなかった。
それも含めて腹立たしかったので、苛立ちをそのままぶつけてやったのだがついでに血も啜れたので結果的には満足している。

 

(………そうだ、うまかったな。やっぱり、美味いんだよ。死んだばかりのやつの血はとても、美味い、はは…。あー、美味かった)

 

少しだけ飢餓感が落ち着いたが、シェスの精神状態は相変わらず安定しない。

 

(あれより、こっちのほうが美味い。そうだよなァ。……あれ、アレってなんだ…。野菜が入った、アレと、黄色い甘い…。美味かったのに。また食ってもいいとおもった。血より俺はあれがいい、と思って………アレって、なんだ…?)

 

霧がかったように頭が重い。
身に纏うカソックが紅く滲んで重い。
そういえば自分の荷物袋をあの部屋に置いてきたことを思い出した。
あの中に何着か似たような服を入れていたのに。
錆びた鉄の匂いはシェスにとって甘美な香りだが、獣が匂いにつられてよってくるのは面倒なので可能ならば着替えたい。
蝙蝠姿になれば解決するのだが、鈍く翳ったシェスの思考はそこには至らない。
山賊の服を拝借するのも一つの手だったが、そこまで潔癖な性分でないシェスも流石に山賊の着古した服を纏うのは避けたかった。
というよりは、今身に纏っているカソック以外の服はあまり身につけたくない。
自分はこのカソックがあればそれでいい。
例え着替えるとしても、同じ形状のものがいい。
自己満足の未練がましいこだわりだ。

そもそも、まともな形で服が残っていないのだから無理な話だが。
つい、興が乗ってずたずたにしてしまったのだ。仕方がない。
片付ける気も起きずそのまま立ち去ったが、森の獣がそのうち集まって自分と同じ用に歯を立てて食べ散らかしてくれるだろう。

 

「………なあ、神父さま、シスター、俺はどうすりゃいいんだ、どうすればよかったんだ」

 

白い睫毛も蜂蜜色の瞳も虚ろに震えて焦点が合わない。
シェスの薄い唇から漏れるのは、問いかけるようであって結局は答えを求めていない透明な独り言だ。

 

「………最初から相手にしなければよかったのか、あいつが、あのひよこちゃんが、クソ野郎どもに使い潰されて路地裏で冷たくなるのを眺めてればよかったのか。……あー、でもあいつらすげーむかついたからなァ。やっぱ無理だ、無理、無理。だって、俺のきれいな白い羽根をひんまげやがった。許されねぇよなァ」

 

口元についた紅い汚れを拭う。

 

「………それとも、こんなズルズルひきずらないで、ひよこちゃんをいっそ、食っちまえばよかったのか。神父様とシスターみたいに?神父様、シスター、おいしかったな?くるしかったな?たのしかったな?つらかったな?んー、どっちだっけか、わかんねぇ、はは…」

 

虚ろだった顔にまた笑みがこびりついた。
何処までも愉しげで、何処までも苦しげな矛盾に満ちた笑みだ。

こんなことなら、あの子供をさっさと手放して故郷に返してしまえばよかったとシェスは思う。
ノウを傍らに置いておけばおいておくほど、シェスの胸の内は何かがじりじりと焼けて焦げ付いて、狂気に満ちた享楽的な自身と、かろうじて正気を宿した脆く悲観的な自身が互いに互いを切りつけ合うような鋭い痛みを与えてくるからだ。
しかしいざノウを手放そうとすると、またどこかが軋む音を立てて鈍い痛みをシェスに与えてくるのだ。

 

「ガキの面倒を見ても苦しい、ガキを手放してもしんどい。…じゃあ、どうすればいいんだよ」

 

どうせまともでなくなるのなら、ずっと愉快な気持ちのままおかしくなれればよかったのに。
そうすれば自分は毎日が愉しかっただろう。
嗤いながら目についた何かを屠って、鼻歌を歌いながら食らいついて喉を潤して、朝日に舌打ちをしながら踊るように夜を渡り歩いて、そして最後は愚かで無謀な蛮勇のハンターかなにかを道連れに、惨たらしく退治される。
きっと、そうなったに違いない。
しかし中途半端に狂った自分は、心の底から愉快で不愉快で楽しくて悲しくて矛盾した感情が交互に顔を出して口元はいつだって歪んでいる何かになった。
気まぐれに拾い上げて連れ去った子供のあたたかさに、ずるずると引きずられるように未練がましくかつて失った日常にすがりついている何かになった。

冷え冷えとした独りの空気も、温かい誰かがいる空気も同じくらいにシェスの精神を削り取っていくのだからどうしたらいいのかわからない。
深い水の底で酸素を求めて口を開くだけで肺に水が流れ込んでくるような息苦しさに、顔と髪を掻きむしって唸り声を上げる。
まるで、幼少の頃悪夢を見て涙ぐんで誰かのもとに顔を出していたころとなんら変わりない情けない姿だ。

 

(――情けない、こんなのは、兄貴っぽくない)

 

シェスは幼い頃から誰かに頼りにされるのが心地よいと思うタイプの人間だった。
「シェスに任せておけば安心だね」とか「いつもありがとうございます、シェス」といわれるのがとても好きだった。
子供心ながら自尊心を満たされて随分と気分が良かったものだ。
だから、あまり誰かに泣きついたりしないように、いつだって強気でやや勝手で、やんちゃだが頼れる兄貴分として振る舞っていたつもりだった。

 

しかし元来のシェスは、自分が思っているより強い人間ではなかった。

 

弟分、妹分、同年代の仲間、慕っている大人に頼られてようやく奮起できる人間だった。
独りになると途端脆い部分が表面化し、その思考は悲観的な方へ止まることなくずっと転がっていくタイプの人間だった。

兄のように慕っていたアトスが冬を越えられなかったとき、他の孤児院仲間を元気づけていたシェスをシスターのベルナッタがそっと寄り添い、ささくれだった自分の悲哀を慰めてくれたこともある。
それでも微かに抱いた寂寥感は消えることがなく、一人、誰も来ない教会の裏で、静かに眼底を湿らせるときもあった。

子供の頃、下卑た笑いを浮かべた大人に路地裏へひきずっていかれそうになったとき、気丈に振る舞ってそれこそ相手に一発頭突きをしてやったが、それで殴り返されたときはとても痛くて怖かったし、慕っていた神父のカスペルが助けてくれたときは、少し泣いてしまったこともある。

あの頃は正直自分の容姿があまり好きではなかった。

孤児院に里子を求めてやってきた里親や将来従業員として雇用するために孤児を引き取ろうとやってくる商人は、シェスの整った容姿に惹かれて引取を希望してきたが、シェスの外見と一致しない粗暴な振る舞いに勝手に失望して断りを入れてきたことも少なくない。

上辺だけで自分を装飾品のように扱ってくる相手に声をかけられるたび、シェスは自身を否定されているようでうんざりしたものだ。
それでも引き取りたがる大人は問題がある輩が多く、それらは何度か権力をふりかざしてきた大人もいたが、神父やシスターが"おはなし"しに行ったあとはぱったり何も言ってこなくなったので、何かしら説得したのだろう。

そういうことが続いて、シェスは自分の容姿を称賛されると身構えるようになっていたが、孤児院の家族たちに囲まれて、垣根なく愛情を注がれた結果、ひねくれた性根はどうにもならなかったものの、面倒見のいい青年に育ったのだった。
弟分や妹分に頼られれば、憎まれ口をたたきながら手を差し伸べて。
大人たちに喜ばれれば、肩をすくめてなんでも無いように視線をそらしながら頬を紅潮させる。
嬉しいことがあれば、素直に本心から笑ったし、悲しいことがあれば悔しさで地面をにらみながら眼底を湿らせた。

ノウを泣き虫だとからかい更に涙ぐませるシェスも人間だった頃は涙腺が脆かったし、ノウほど心根が素直にないにしろ、柔らかい繊細な気性を多少は持っていたのだ。

 

その後、自分の容姿も使いようだと折り合いをつけたのがいつだっただろうか。

 

自分の容姿で右往左往する相手をどん底に叩き落すのが愉しくなったのはいつからだったろうか。

 

常に嗤うようになったのは、道化のようにおどけるのが癖になったのは、いつだったろうか。

 

もう、思い出せない。

 

「明日が来るのがしんどい、昨日を振り返るのがしんどい、今日が終わるのも始まるのもしんどい。…はは、自分で言っててくっそ面倒なやつじゃんなァ、ふふ、ふふふ…」

 

とつとつと独り言を綴っていくシェスにはもう、そんな部分は見る影もない。
蜂蜜色の瞳は揺れて、艶気を帯びた声は覇気がなく、薄い唇は半笑いを浮かべて歪んでいる。

 

「――俺は、どうしたら、よかったんだ」

 

独り森を歩くシェスの問いかけに答える者はいない。
さく…、さく…と草むらをブーツで踏みつけて彷徨いながら森の奥へと歩いていく。
立ち止まるともう足が動かなくなりそうだった。
立ち止まるわけには行かない。
離れなければ、何処か遠くに、どこでもいい。
明日を告げる陽の光から逃げ出して、昏い夜に息を潜めて漫然と時間を浪費するだけの何かに戻るだけだ。
半年前とかわらない日々が戻ってくるだけだ。

 

無意識にシェスはまだ逃げていた。

 

あの、人の良すぎる、子供の、ノウの気配からシェスは逃げ続けていた。
明日へ自分を連れて行こうとするあの子供から、逃げなければと強く思っていた。

 

(俺は、あれを、食いたくない)

 

シェスが感じた飢餓感は、シェスの絶望を色濃くさせるには十分なものだった。
飢えた手負いの獣が伸ばされた手を恐怖にかられて食いちぎらないわけがない。
ノウの肩を両手で握りつぶそうなぐらい強く掴み、口を大きく開け尖った牙を光らせていた自分の姿がシェスの脳裏に浮かび上がる。
まどろみの向こうで突きつけられた悪夢が現実になりかけていたかもしれないと思うと激しい吐き気がシェスの全身に満ちて、ぞわ…っと背筋が粟立った。

誰に対してもそんな感情を抱くわけではない。
自らに危害を加えてこようとする相手なら、八つ裂きに千切って血を啜ることをなんとも思わない。
自らが作り上げた肉塊の数を正確に覚えているわけではないが、少ない数ではなかったはずだ。
じっとりと紅く濡れたカソックが、自らの行いを突きつけてきているようで嗤いが止まらない。
人間だった頃は比較的善良だったはずの頃に比べて、随分と深いところに堕ちてしまった。
その場に留まるか、更に深いところまで沈んでいくしかシェスにはもうできないのだ。
かつていた場所に血反吐を吐きながら這い上がったとしても、照りつける光に照らされて、のたうち回りながら焼け死ぬだけに違いない。

 

「神父様、シスター……」

 

少しだけ弱音を零すことができていた大事な誰かを引き裂いたのは紛れもない自分で。

 

「アトス、ルギオ、ベロニカ、アンナ、レアン…」

 

時間を共有できたはずの誰かに自分は置いていかれた。

 

 

 

「だれか」

 

 

もう誰もいない。
みんないなくなってしまった。
流れ行く時間の波に揺られて、全部、全部シェスが届かないところに流れていった。

 

 

 

「だれか―――、」

 

 

 

だからわかっている。
シェスはわかっている。

 

 

 

 

 


「―――たすけて、くれよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この声はもう何処にも届かないのだと。

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