夜明けの星02
「わぁ~~!」
大都市に到着し馬車から降りたノウはぱぁっと顔を輝かせた。
土や砂利とは違い、さらにはホルドナよりも綺麗に補正された石畳が何処までも続いている地面。
煉瓦の壁でつくられた家はしっかりとした作りでどこか洗練されているように感じた。
立ち並ぶ店には色んな商品が並んでいる。
壺の中にぎっしりと詰められたほんのり輝く青水晶。
店先に吊るされた丸いステンドグラスのランプ。
みずみずしい果実や、それらを加工した嗜好品が並ぶ屋台。
ホルドナにいたときは今ほど周りを見る余裕がなかったノウにとって、目の前に広がる光景はとても新鮮で色んな所に目を奪われた。
思わず身体がぴょこぴょこ揺れる。
「おい、ひよっこ。あんまりキョロキョロして転ぶなよ」
「えっ、あっ、ご、ごめんなさい…」
思わず歩きだそうになったノウを引き止めたのは、馬車から続いて降りてきたシェスの声だ。
何処か呆けたようにみつめている御者に代金を渡してシェスがノウに歩み寄る。
「行くぞ」
「う、うん」
長期滞在可能な宿がどこか、シェスには心当たりがあるらしい。
日傘をさしてスタスタと歩き始めるシェスの姿はスッと背筋が伸びていて、その容姿も相まってすれ違う人の視線を時折奪っていた。
立ち並ぶ店に後ろ髪を引かれながら、お店を見たいとわがままを言うのは迷惑だろうとノウも慌ててシェスの後を追う。
「……店は明日にしな」
「……えっ、いい、の?」
「金がそんなに残ってねぇから買ってはやらねぇが、見るぐらい問題ねーだろ」
「…!う、うん!!」
嬉しさで顔を上げてシェスを見つめたが、シェスはついっと顔をそらしてしまった。
ノウはシェスの歪に嗤っている顔と不機嫌そうに遠くを見ている顔しか見たことがない。
やはり迷惑をかけているのだろうかとシュンと肩を落としたノウだったが、そのあと白い手が自分の手をぞんざいに掴んで歩きだすと、ノウの沈んだ気持ちはあっという間に浮上したのだった。
シェスがノウの手をひいてしばらく歩いていると賑やかな喧騒がすこしずつ聞こえなくなってくる。
ついたのは裏通りとまではいかないが、どちらかといえば住宅街に近い場所だ。
「えっと、ここなの?」
「おう」
目の前には5階建ての家屋がある。
通りに面する壁には花壇が置かれていて、淡い色合いの花が咲いている。
花びらは水滴をまとってみずみずしく、家人が丹精込めて世話をしているのがわかった。
両開きの窓は開かれていたが、中から聞こえてくる声はない。
【狭間の追憶亭】
そう書かれた看板が風に揺られてカタカタと音を立てている。
宿というのはもっと賑やかなものではないのだろうかとノウは首を傾げたが、疑問を口にする前にシェスがさっさと扉を開けて中に入ってしまったので慌ててあとに続いた。
中は閑散としたものだった。
カウンターと食堂が一緒になっているようで、円形のテーブルと椅子が何組か並んでいる。
床は多少年季が入っているが、毎日しっかり掃除をされているようで大きな埃は見当たらない。
ランプや天井の明かりも柔らかく、以前ホルドナで過ごしていた家屋に比べればずっと綺麗だとノウは思った。
「よう、亭主。相変わらず客がいねぇなァ。もうとっくの昔に宿なんて畳んじまったかと思ったぜ」
「いらっしゃ…なんだ、誰かと思えばシェスじゃないか。余計なお世話だ!…まったく相変わらず外見と中身が一致しないというか。開口一番失礼な奴だ」
「…くく、しおらしい俺なんて気持ち悪いだけだろーが」
ぼんやりと見回していたノウをよそに、シェスがカウンターにいた男に気安く話しかける。
亭主と呼ばれたあの男はこの宿の経営者だろうか。
髪の生え際が額の少し後ろの方に後退している、顔が厳つい男だ。年齢はよくわからない。
シェスは相変わらず人を喰ったような歪んだ笑みを浮かべていたが、亭主に対して放つ言葉は何処か軽い。
(シェスさんの知り合いなのかな…)
邪魔をしては悪いとじっと様子をうかがっていたノウだが、亭主とパチっと目があってしまった。
「ん?子供?お前さん、まさか子供をさらってきたのか…!?それはさすがに犯罪だろうが!!」
「!!?!?」
ぎょっと目を剥いた亭主につられてノウもビクリと肩を震わせて目を白黒させる。
「ばーか、ちげぇよ。…いや、違わねーのか?」
「おい」
「まあ、細かいことは気にすんなよ。……ワケアリでも受け入れてくれるのがここのいいところだろ?」
ニヤニヤと笑いながらシェスが亭主に耳打ちした言葉はノウには聞き取れなかったが、亭主は苦虫を噛み潰したような顔でため息を付いている。
「ひよっこ」
それを眺めていたノウをシェスがこっちにこいと手招きして呼んだので、あわててシェスの近くまで走り寄った。
そのままぐいっと肩を押されて亭主の前に出される。
「あ、あ、あわ、あわわ…あう…あの…の、ノウ、です…」
「ああ、挨拶ありがとうな」
「うん、あっ、ハイ…」
亭主の厳つい顔にしどろもどろになりながらも自分の名前をなんとか告げると、亭主も目元を緩めて挨拶を返してくれた。
「こいつの面倒を見るから、暫くここに泊まらせてもらうぜ。いいよな?」
カウンターに置かれた銀貨袋を見た亭主が肩をすくめる。
「どういう風の吹き回しだ?…というかお前さんはだめだといっても聞かんだろうが」
「ひひひ…、まあなァ。金があんまねぇから今は一部屋でいい。依頼はここでも受けれるのか?」
繁盛しているとはいい難い店内を見回すシェスに亭主が舌打ちで答える。
「言っておくがうちは閑古鳥がないてるわけじゃないぞ。外からの飯を食いに来る客だっているんだからな」
「はーん、そうかそうか」
「まともに聞け!」
「聞いてる聞いてる」
「あわわ…」
ケタケタ嗤うシェスに怒る亭主、あたふたと見守るノウ。
結局寝室で腰を落ち着けたのは日がすっかり暮れた頃だった。
寝室は質素ながらしっかりと手入れされていて過ごしやすそうに見える。
着替えをしまうタンスもあり、窓からは通りが見えて日当たりも良さそうだ。
椅子と机はノウにはやや大きいが、シェスにはちょうどよい大きさだ。
それと小さな棚と大人一人なら問題なく眠れそうなベッドが一つある。
ベッドが一つ、ある。
「…?あ、あの、シェスさん」
「あ?なんだよ」
ノウの戸惑った声に荷物が入った袋に手を入れながら中身を確認していたシェスが顔を上げる。
「ベッド、ひとつしかないよ…。えっと、おれ、何処で寝たら…」
ホルドナにいたときは布を渡されて椅子を並べて寝かされた日もあるので、寝ろと言われれば床で寝るのも我慢できなくはない。
だが、シェスの返答はノウが思っていたのとは違った。
訝しげに眉を寄せて呆れたような怒ったような笑みを浮かべてベッドを指差す。
「…そこにベッドがあるだろうが」
「えっ、でもシェスさんは?」
自分がベッドで寝たら、この人は何処で寝るのだろう。
「おいおい、お前、忘れたのか? 俺が何かもう忘れたのか?」
所在なさげに立ち尽くしていたノウにシェスがすっと立ち上がって近づいてくる。
白い指がノウの額をトンッと少し強めに押した。
「わっ…」
「俺はなァ? 泣く子も見惚れる吸血鬼様だぜ? 今からが俺の時間。俺は出かける。その間にお前はベッドで寝る。お前が起きる頃に俺は帰ってきてそこで寝る。二人部屋を借りる余裕なんて今はねぇ。馬車とお前の飯で金がだいぶなくなっちまったからな」
押された額を抑えながら不安げに見上げるノウに、シェスがとつとつと語った。
つまり今日はベッドを一人で使ってもいいということだ。
言われてみれば、これまでもシェスはノウにベッドを譲ってくれていた。
「明日、俺は昼まで寝る。朝飯は一人で食いな」
「う、うん。…シェスさん、今日は今から出かけるの?」
「ああ?ガキは詮索しねぇでさっさと寝ろ。…それともあれか?ん?俺がいないとさびしくて寝られねーのか?くく…っ、ふふ…」
シェスの湿った絹糸のような声がノウを冷やかす。
「……!……、……うう…」
そんなことない、とも、そうだ、とも言えず思わず押し黙ってしまったノウだったが、それではほぼ肯定しているようなものだ。
何度か振るわれた理不尽な暴力に、ノウはホルドナにくるころより些か臆病になっていた。
たとえ自分のことを"非常食"だという相手でも、近くにいてくれると安心するのだ。
(呆れられちゃったかなあ…)
ただやはり自分でも情けなくて、シェスの方を見れずぎゅっと目をつむって俯いた。
だからシェスの蜂蜜色の瞳が一瞬まんまるくなったことにノウは気づかなかった。
「……はっ、どうせお前が寝るまではここにいるけどな」
「えっ?」
「お前、目を離すとすーぐ物ひっくり返したり、なにもねぇところで転ぶだろ」
「こ、こ、ころばないよ!ひっくり返さないよ!!」
「どうだか!馬車から転げ落ちそうになったり、荷物袋ひっくり返して道端にぶちまけたやつに言われてもなァ」
「あ、あ、うう…!」
どちらも事実やってしまったことなので二の句が継げないノウだ。
「つべこべいってないで、早く着替えて寝ろ」
「うう…」
シッシッと手で追いやられながら着替えてベッドに横になる。
ベッドはふかふかとは言い難いが、並べた椅子の上よりはずっといい。
故郷で自分が使っていたベッドとそう変わらない気がした。
シェスは荷物袋の整理が終わり、タンスに服をしまっている。
「あの、シェスさん」
「なんだよ」
「おやすみなさい…」
「……おう」
枕に頭を乗せればあっという間に睡魔がやってくる。
シェスの気配を感じながら、ノウはゆっくり意識を手放した。
「…、…………」
スウスウと聞こえてくる寝息を耳で拾いながら、枕元の棚に置かれていたランプの明かりを消す。
――シェスにぃ、ねむれないよう……。
――レアン、お前、まーた、おばけが~~とかいう気かー?
不安がって眠れないノウと遠い過去に置き去りにした世界の声が重なる。
シスターや神父を間近で見てきたシェスは、おばけや幽霊と言った類に対して恐怖心を抱いていなかったが、孤児院の子どもたちの中には感覚が鋭くてそういうものの影響を受けやすかったり、ただただ恐怖心を強く抱いてしまう者もいた。
年下の面倒を見るのは嫌いじゃない。
だから教会にいた頃は、小さな子供が眠れないとぐずれば皮肉交じりに文句を言いながら眠るまでそばにいてやったものだ。
――だって、だって!
――うちは一応教会なんだぞ!おばけなんてお祈りと聖水でイチコロだろ!
得意げに胸を張っていた幼い自分が浮かんで消える。
(聖水、ねぇ。くく…、今じゃ俺がそれでイチコロなんだけどな)
ノウを起こさないよう小さな声でくつくつと嗤いを漏らす。
(それにしても…。こいつマジで危機感ねぇな。"非常食"のくせに)
道中ノウと2人きりのとき、お前は俺の非常食だと何度も言った。
そのたびにどこか怯えたように震えるノウだったが、結局自分のあとをくっついてくるのでシェスには訳がわからない。
(こいつは、"ひよっこ"で"非常食"。それで十分。十分だろ)
名前なんて覚える必要はない。呼ぶ必要もない。
名前を呼べば、今以上気にかければ、きっと自分は、あれだけ焦がれてあれだけ恐怖した場所に、その身を焼き尽くす痛みを伴いながら戻らなければならなくなる気がするからだ。
怖い。二度と戻ることができない場所だとわかっているから怖くて恋しくて苦しい。
それでもこの子供を手元においているのは、自分があちらとこちらの境界線の上でいまだゆらゆらと揺れているからだろうか。
「……ぅ…」
ぼんやりとノウを見ていたシェスは、ノウがベッドの上で身動ぎしたのに気づきそろりと近づいていった。
ベッドの上で体を丸めて眠るノウは、どこか苦しげに眉を寄せている。
「……て、……さ、い…」
とぎれとぎれに聞こえる寝言は、人ではないシェスの聴覚で問題なく聞き取れることができる。
――うまくできなくて、ごめんなさい。
聞き取れた言葉はシェスの胸をざわつかせるには十分だった。
整った容貌にじわりと広がる歪みをみるものはここにはいない。
道中何度かこのようにノウがうなされていることがあった。
原因はわかっている。ホルドナで受けた仕打ちがノウには忘れられない傷になっているのだろう。
ノウに理不尽な暴力を奮っていた男たちは、生憎森で獣や妖魔の腹の中に収まったか、土へと還って養分になったはずなのでもういない。
自分がぐちゃぐちゃに壊して捨ててきたのだから間違いないはずだ。
白い指が何度かノウの額を滑り、汗で張り付いた前髪をのけていく。
何度か繰り返していると、やがてノウの寝息は落ち着いたものになり寄せられていた眉からふっと力が抜けていった。
「―、――めんどくせぇガキ」
ぽつりと部屋に広がる声は、静かな夜に溶けて消えた。