白霧の月02

「どうしよう…。元気ないのかな。お医者さんに診てもらったほうがいいのかも。こうもりをみてくれるお医者さんっているのかなあ…」


おとなしい白い蝙蝠に子供は何を思ったのかシェスを両手で抱えたまま表通りへと歩を進め始めた。
目を剥いたのはシェスだ。
今は昼を過ぎたばかりで日差しが強い時間帯。
好きこのんでこんな時間の日光を全身に浴びる吸血鬼がどこにいるというのか。


「ギィイーーーーーーーーっ!!!」
「ひゃっ………!?」


しばらく硬直していたシェスは威嚇するように声を荒げた。
おとなしくしていた蝙蝠が突然あげた奇声に子供も驚いたのだろう。
思わずシェスからぱっと手を離す。


バサバサバサッ!


子供の手から離れたシェスは今だとばかりにそのまま翼をはためかせて木箱と木箱の隙間に潜り込んだ。


「あ、ああっ!隙間に逃げちゃった…!!」
「ギッ…ギギギッ!!」
「そ、そんな奥に逃げたらだめだよ、なんだかこの木箱古いし、崩れたら潰れちゃう…!」


子供の身長より高く積み上げられた木箱は、路地裏に打ち捨てられていたものだ。
長い間打ち捨てられていたそれはだいぶ老朽化が進んでいて、時折ぐらついている。
隙間に逃げ込んだ白い蝙蝠が崩れた木箱の下敷きになっては大変だと、子供はおろおろしながらも手を伸ばしてシェスを捕まえようとしてきたが、捕まってたまるかと、シェスは歯をむき出して威嚇した。


「だ、だいじょうぶだよ。何もしないから、こわくないよ」
「ギッギギッ!!」
「いきなりつかまえたからびっくりしたのかな…。ごめんね。でも、その隙間はあぶないよ。せめて外に出てきてほしいな…」


子供が木箱に手をかけて乗り出すようにシェスの方へ手を伸ばす。
隙間の向こうから聞こえてくる声に悪意はなく、子供がシェスをただ気遣っているだけなのが伝わってきて、シェスは唸り声をやめて自分へと伸びてくる褐色の小さな手をじっと見つめた。


「………………」


もう顔も声も思い出せないのに、自分の手や足元にまとわりついてきた孤児院の小さな子どもたちの記憶がシェスの脳裏をふとよぎって、目の前の子供に重なった。
おとなしくなったシェスに、子供はホッとした様子で木箱の隙間からシェスを出そうとさらに手を伸ばした、そのとき。


ミシッ…。


「――――、――――」


嫌な音がシェスの鼓膜を震わせた。
その音は老朽化した木箱から聞こてきたが、どうやらシェスを隙間から出そうと必死になっている子供には聞こえていないらしい。


ガラッ…と木箱が傾く気配。


「―――、―――ギッ!!」


シェスは反射的にこちらに触れそうな距離まで近づいてきていた子供の指にガリッと歯を立てた。
まだ柔らかい子供の皮膚にシェスの尖った犬歯がざくりと突き刺さる。


「い、たっ………い…………っ!?」


指先に走った激痛に子供が悲鳴を上げて木箱から飛び退くのと、木箱が音を立てて先程子供がいたあたりに崩れ落ちたのはほぼ同時だった。
ガンッ!!と音を立てて木箱が地面へ激突するのを、子供は呆然と見つめる。


落ちてきた木箱は子供がすっぽり入れそうなサイズだ。
長く打ち捨てられていて中に何も入っていない木箱とはいえ、あのまま頭の上に落ちていたら無傷では済まなかっただろう。
打ちどころが悪かったら大怪我をしていたかもしれない。


「…、……あっ。こうもり……!」


ありえたかもしれない未来に顔を青ざめさせていた子供だったが、はっと我に返り崩れた木箱に近づく。
もう一度、シェスがいたところを覗き込もうとしたが、崩れ落ちてきた木箱がちょうど隙間の入り口を隠してしまってよく見えない。


「ど、どうしよう、どうしよう…。あの白いこうもりが、木箱に潰されちゃった…」


子供の細い瞳がじんわりと涙で滲む。
小柄で小さな蝙蝠だった。
さっき落ちてきた木箱の重さなんてとても耐えられないだろう。
耳を澄ませてみたが、崩れた木箱の山からあの白い蝙蝠の鳴き声は聞こえてこない。
自分が木箱に体重をかけてしまったから、木箱の山が崩れてしまったのだろうか。
自分が余計なことをしなければ、あの白いコウモリは無事だったかもしれない。


「…ぐすっ…。おれがびっくりさせちゃったから…、こうもりが…」


子供の胸のうちに後悔がじわじわと広がっていった。
ごめんね、ごめんねと涙ぐむ。
子供はしばらく泣きじゃくっていた。






子供の涙が治まりかけたころ、崩れた木箱の向こうからキイキイという鳴き声が微かに聞こえた。


「…………!!」


ばっと顔を上げた子供の視界に微かに白い物体が映る。
どうやら木箱に潰されずに済んだらしい。
ごそごそと動いている様子は元気そうだ。
大きな木箱に阻まれて、子供が白い蝙蝠に近づくことはできなかったが、よくよくみれば白い蝙蝠が出入り出来る隙間はまだ開いている。
おそらくこのまま閉じ込められてしまうことはないだろう。
ほっと胸をなでおろす。


――おい、あのガキどこいった!
――買い出しもできないのか、あの鈍くさいガキは!!


白い蝙蝠に声をかけようと子供が小さな口を開いた直後、表通りから数人の男達の声が聞こえた。
まるで怒鳴り散らしているような声は路地裏にまではっきり聞こえてくる。
実質、子供はびくっと肩を震わせて慌てたように表通りの方へ顔を向けた。


「あっ…!い、いけない。おれ、買い出しの途中だった…!!」


慌ててりんごを抱えて表通りへ走り出す。
わたわたと足を動かす様子は危なっかしくまた転んでしまうのではと思うほどだったが、ここにいるのは子供と白い蝙蝠だけだ。
転んでも自分で立ち上がるしか無いし、これ以上買い出しで頼まれたものを落としてだめにしては大変だ。
落としてしまったりんごに傷がついていないか確かめた子供は、自然と自分の両手も見ることとなった。
じんわりと血が滲んでいる指が目に入る。
先程白い蝙蝠に噛まれたところだ。


(きらわれちゃったかなあ…)


蝙蝠に噛まれたこともショックだったが、怖がらせてしまったかもしれないことが子供に悲しい気持ちを抱かせた。
物珍しさもあったが、暗い路地裏でじっとしているあの白い蝙蝠がなんだか気になってしまって、仲良くなれたらいいなあと子供は思ったのだ。


(あのこうもり、身体がひんやりしてた。路地裏で身体がひえちゃってるのかも…。風邪ひかないといいなあ)


白い蝙蝠を抱き上げたときに両手に伝わってきたのは、木陰のようなひんやりとした感触で、蝙蝠というのは体温が低いものなんだろうかと子供は首を傾げた。
村にいた頃、鶏やひよこに触れる機会は多かったが、蝙蝠に触れる機会はあまりなかったのであの蝙蝠の体温の低さが、蝙蝠としては普通のものなのかそれとも体調が良くなかったのかはわからない。


物陰から飛んできた白い蝙蝠の姿を思い出す。
りんごがうまくとれなくてひっくりかえってしまったのには驚いた。
自分の状況が飲み込めていないのか、きょとんとした様子で蜂蜜色の瞳がまんまるくなっていたのがなんだか可愛くて笑ってしまいそうだったのは秘密だ。
そこまで思い出して、体毛が白いのも珍しいが、瞳の色も変わっていたのだなあと今更ながらに驚く。


(なんだか、お月さまみたいな黄色くてまんまるい目だったなあ)


りんごをまるごと置いたら、りんごにくっついて羽根で懸命におさえながら噛み付くのだろうか。
余分にりんごをかってあげるお金を残念ながら今の子供は持っていなかったが、りんごを食べている白い蝙蝠を思い浮かべるとなんだか心があたたかくなった。


――おい、どこで道草食ってやがるんだ!!
――まさか、金を持ち逃げしたんじゃないだろうな。


「う、うわわ…っ」


表通りからまた聞こえてくる怒鳴り声に、子供はまたびくりと肩をすくませる。


(りんごはやくもっていかなきゃ…。また怒られちゃう…)


崩れた木箱の山を何度も振り返りながら、そっと路地裏を後にした。
























「…………」


小走りで駆けていく子供の姿を、シェスは崩れた木箱の隙間から静かにじっと見つめていた。
結論から言えば、シェスは無事だった。
そもそも木箱は子供の方へ落下したのだ。
シェスが潜り込んでいる隙間には何の影響もない。


「………ギギッ」


悲しそうにりんごを持って立ち去る子供の姿が脳裏に焼き付いて、シェスは苛立ちを抑えきれず、木箱の端にガジガジと齧りついた。
ひとしきり木箱を齧ってボロボロにし、小さな体をねじりながら木箱の隙間から這い出てくる。


「ギィーーー」


それからそのままジタバタと駄々をこねる子供のように地面を転がりまわった。
自分がなぜこんなに苛立っているのかシェスにはわからない。
ギイギイ唸り声を上げながらひとしきり転がっていたシェスだったが、やがて虚しさを感じてきて、ぴたりと暴れまわるのを止めた。
なにもない色あせた壁をじっと見ながら思考を巡らせる。


(あのガキがぶらさげていた巾着袋、色あせて布もほつれてたが、俺がレアンに作ってやったやつに違いねぇ。ご丁寧に俺が入れた刺繍もあった。あのガキはレアンのなんだ?)


レアン。孤児院で暮らしていた頃、自分のあとをよくついてきていた弟分。
人見知りで泣き虫だったあの子供は今いくつぐらいなのだろうか。
シェスはレアンの顔を脳裏に思い描こうとしたが、結局できなかった。


レアンの顔はぼんやりとしか思い出せないというのに、あげたものはしっかりと覚えているのだから、自分の半端な記憶力には呆れたものだ。
本当はあの子供が首に下げていた巾着について詳しく問いただしたかったが、蝙蝠の姿で意思疎通をするのは難しいだろうし、人の姿で話しかけられても子供からすれば見知らぬ相手に突然声をかけられるのと変わりない。
不安や恐怖を感じて、警戒されるだけだろう。


「……………」


それにあの子供はきっともうこない。
噛み付いてきた獣のところにわざわざまた出向く理由など無いのだから。
むしろあの子供に泣きつかれた親がやってきて、自分を駆除しに来る可能性だって低くはない。


(ちっ、そうなると面倒だな…。あんなガキ放っておけばよかったぜ。……まあ、駆除だのなんだのしにきやがったら、俺は”正当防衛”するだけだけどよ)


バサッと羽ばたいて再び木箱の隙間に潜り込み、身体を丸めて目を閉じる。
シェスが潜めそうな路地裏なんて、この港町にはいくらでもある。
ここから飛び去って違う場所に身を潜めればいい話なのだが、なぜかシェスはその気になれなかった。
まだ陽が高く本調子が出ないせいか、それとも久しぶりに自分へと向けられた人の声と温もりの余韻にもう少し浸りたかったのか。


シェスの口元には先程噛み付いた子供の指から滲んだ血がついていた。
本能的にぺろっと舌を動かす。




口内に広がる血は、泣きたくなるほど甘くて嗤い出したくなるほどだった。




「………キィ」




また明日から何の代わり映えもしない惰眠をむさぼる毎日が始まるのだろう。
木箱の隙間にまた潜り込んで、じわじわと湧き上がってきた空虚感から目を背けるように、シェスは白い身体をさらにくるりと丸めた。


代わり映えのない独りの夜が来て、また代わり映えのない独りの朝が来る。
シェスが何を思おうともどうなろうとも。




















そのはずだったのだが。






















「こうもりさん、こんにちは。まだここにいるか、な…? あっ!いた!! よかったあ…。おれのことわかる? こうもりって明るいところが苦手だったんだって思い出したんだ。嫌がることしてごめんね…」
「………」
「…………?」
「……キェアーーー!!?」
「な、なんかすごい声で鳴かれた…!!?」


数日も立たないうちにあの子供が再び路地裏に姿を見せたことに、思わずシェスが蝙蝠姿のまま奇声をあげてしまったのも仕方がないことだった。

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