白霧の月01

吸血鬼になって何十年かたったシェスの話。「鬼が生まれるまで」「山奥の村にて」あたりを読んでいたほうが意味がわかるかもしれない感じの話。

  

人の身から吸血鬼という存在へと変貌してから早幾年。
もう季節が何度移り変わったかはわからない。
時の流れを感じることがなくなった身体は、歳を重ねて数えていくことを虚しいと感じるようになっていた。


喧騒が表通りを賑わすとある港街の路地裏にシェスはいた。


「……キィ」


口から漏れたのは、獣のような鳴き声。
その姿は常である艶やかな美貌を携えた青年の姿ではなく、大人の手で簡単に捕まえられそうな小さい蝙蝠の姿だ。


いつだったろうか。
多少の傷ならすぐ再生する身体に慢心を抱いたシェスは、ある日大怪我を負った。
生命エネルギーを大量に失ったからか、それとも負傷した際の激痛によるものか、気づけば蝙蝠に姿が変わっていたのだ。


初めて蝙蝠姿になったときは大変だった。
なにせ人と何もかも身体の構造が違う。
自分の身体に起こった変化に混乱したシェスはうまく飛ぶことができず、地面をコロコロ転がったり、近くの木に激突したりと散々な目にあったのも記憶に新しい。


その後も何度か蝙蝠になる事態に見舞われたが、今ではだいぶ慣れた。
バサバサと翼をはためかせて夜空を飛びまわることも何ら苦ではないし、自分の意志で人間の姿と蝙蝠の姿を切り替えられる。
小回りの利く身体で洞窟や民家の屋根裏に身を潜めて寝床を確保しやすくなったのは良かったかもしれない。


(しかしよォ。なんで全身真っ白なんだよ、くそが…)


忌々しげに蜂蜜色の瞳を眇めて色あせた木箱と木箱の隙間でくるりと丸まる。
そう。シェスは蝙蝠になると真っ白な体毛に覆われた姿になるのだ。


(黒けりゃもうちょい身を潜めやすかったのに、目立っちまって仕方がねぇ)


まったくいないわけではないが、白い蝙蝠というのは珍しいのだろう。
シェスの正体が吸血鬼であることをたとえ知らずとも、物珍しさに捕獲しようと手を伸ばしてくる欲深い人間は少なくなかった。
多少傷をつけても構わないから手に入れようとする輩もいた。
腹立たしさについバラバラにしてしまったが、自分は己の身を守っただけであり、先に手を出してきたのは向こうなのだから自業自得というやつだろう。


他人の命を刈り取ってシェスは今日も意味のない一日を過ごしている。
はじめは、防衛本能や食欲、衝動に突き動かされるまま相手を屠ることに多少の抵抗があった。
骨を砕く音に背筋が凍り、肉をちぎる音に耳が震え、ぐにゃりと折れ曲がった元人間の身体をみて蜂蜜色の瞳は恐怖と後悔に激しく揺れていた自分が、昔はたしかにいたはずなのだ。

しかし今思うのは。

この程度で自分を好きにできると思っているなんて、随分と馬鹿なやつだとか。
血がまずそうなやつだ。とか、多少はいい味がするとか。
その程度で。


それどころか、ご馳走を前にした心躍るような高揚感に、自然と笑い声が喉の奥から飛び出すことが多くなった。
今まで屠ってきた人だった肉塊を思い浮かべて、シェスの端正な顔に最初に浮かぶのは、”笑み”だ。


「………………」


真っ白な耳をぱたぱたと動かしながら、表通りに降り注ぐ日差しを忌々しく睨みつける。
吸血鬼と化した身体に、太陽の光は毒でしかない。
陽にあたった瞬間に即座に全身が焼き尽くされて灰になり崩れ落ちることはないが、しばらくすれば自らの肌は焼け爛れ激しい苦痛に苛まれるのだろう。
シェスはなにがなんでも生き足掻いてやるなんて全く思っていなかったが、かといって、苦痛にのたうち回りながらじわじわと消滅したいとも思っていなかった。


惰性で止まった時間の中を過ごしているのが今の自分だった。
物陰にじっと身を潜めて陽の差し込む街の通りを眺めて夜を待つだけの日々。
街の通りから聞こえてくる雑多な声はいつも賑やかで明るい。
薄暗い路地裏に身を潜めている自分の孤独さをまざまざと突きつけられているような気がして、耐えきれず街から飛び出して森に潜んで時間を潰すこともあった。


けれども。
結局シェスは街や村といった、人が住む場所へふらふらと足を向けていた。


「…………き~」


木箱の隙間からじっと表通りを眺める。
子供の笑い声、市場の商人の呼び込み、楽師が奏でる軽快な音楽。
シェスは人の気配がする場所が好きだった。
孤児院で過ごしていた頃から、たくさんの仲間に囲まれて過ごしていたせいかもしれない。
人気がない森のなかでただ独り朝から逃げて夜を待つ毎日を過ごすより、シェスは人がいる空気を、音を近くで感じたかったのだ。


たとえ、自らの孤独が際立っても。
たとえ、もう二度とあたたかな輪の中に戻れない現実を突きつけられても。


かつて存在したかけがえのない場所は、既に遠い過去になってしまった。
自らが育った貧しくも温かい孤児院の場所が今はもうわからない。
自分が帰る家も、その家に至る帰り道も、もう存在しないのだ。
人間の頃から趣味だった裁縫や工作も今ではほとんどやっていない。
自分のためにつくることもあったが、シェスは誰かに小物や玩具を作って喜んでもらうほうが好きだった。
今の自分にはつくった小物や玩具を渡す相手などいないのだから、自然と手を動かす気力も削がれてしまったのだ。


兄貴分や弟分や妹分だった仲間の顔も薄らぼんやりとしか思い出せなくなっていた。
 アトス、ルギオ、レアン、ベロニカ、アンナ。
アトスとベロニカはもういない。
ルギオとレアンとアンナはまだ元気だろうか。


シスター・ベルナッタ。神父であるカスペル。
親のように慕っていた二人を思い浮かべようとしたシェスの脳裏によぎるのは、二人の最期の姿だ。
折れ曲がった身体、ちぎれかかった腕や首、生前の快活で生気あふれる瞳がどろりと淀んでとけおちる様が断続的に、されどはっきりと浮かび上がり。


「――――、―――」


ぶわりと白い体毛が逆立った。


ベルナッタとカスペルの濁った瞳がこちらを見ている。
路地裏の暗い影から、二人だった肉塊が、自分をじっと見ている。
"なぜ"、"どうして"と問いかけるように、責め立てるような声が、聞こえてくる。


二人が見ている。
こちらを見ている。
見ている。
見ている、見ている、見ている、見ている。




二人を手に掛けた、自分を、二人が暗がりからじっと見ている。






「―――、―――――」




ひゅっと息を吐き出して、シェスは丸めていた身体を更に丸めた。
胸を引き裂いてこじあけて、心臓をかきむしりたくなるような、そんな不快感と喪失感と理解しがたい高揚感がシェスの思考をぐちゃぐちゃにかき混ぜて、目につく物を手当たり次第に破壊したい衝動がぐるぐると脳内に渦巻いている。
無理な体勢を強いられた白い身体は少しの痛みを訴えてきたが、言いようのない衝動に振り回されているシェスには些細なことだった。


ベルナッタとカスペルの抜け殻を、果たして自分はどうしただろうか。
ごとりと落ちてころがったカスペルの頭部を拾い上げて、くっつけなければと裁縫道具を取り出したのだったか。
結局ちゃんとくっつけられたのだろうか。
あのときの惨状は今でもまざまざと思い出せるのに、その後のことを思い出そうとすると、毎回違う映像が脳裏に浮かび上がる。
引き攣った笑い声を上げながら、まだ凝り固まっていない血を舐め取ったかもしれない。
恐怖にかられて、悲鳴を上げながらその場を逃げ出したかもしれない。


「……、ぎ…」


呻くような鳴き声が白い小さな体躯からこぼれ落ちた。


なぜあんなことになったのか、今でもシェスにはわからない。
なぜ自分がこんな事になったのかも、今のシェスにはわからない。


しばらくじっと身体を丸めていたシェスだったが、ふと自分の腹部から、くぅと音が鳴った。
ぱちりと蜂蜜色の瞳を瞬かせる。


(ああ…。そういや、最近、何も食ってねぇ)


血を啜る以外の食事を最近のシェスはあまりしていなかった。
異形の存在になる前と違って、血さえあればそれなりに動ける身体だ。
というよりは、血液以外の味がわからなくなってしまい、何も食べる気が起きなくなったのだが。


いつからだろうか。
肉も魚も野菜も、弾力があるゴムのようにしか感じなくなったのは。
それも劇的にではなく、少しずつ、少しずついろんな食べ物の味がわからなくなっていったのがシェスの精神を一層追い詰めていった。


以前、市場の屋台にならべられていた菓子を、蝙蝠姿で近づき物陰を伝ってこっそり拝借し口に含んでみたが、まるで砂のような味が口内に広がるばかりで。
あんなに美味しいと感じていた甘い物の味もわからなくなったことに酷く狼狽したシェスは、路地裏で金に目がくらんで自分へ絡んできた不運なチンピラを八つ裂きにして血を啜って気を紛らわせた。


些か質の悪い血ではあったが先ほど口にした菓子よりもずっと甘く感じて、味覚も既に異形のそれへと変貌してしまったのだと突きつけられて、ただただ笑いが止まらなくなった記憶は新しい。


そう、笑いが止まらなくなった。おかしくて仕方がなかったのだ。


シェスは人であったときよりも、よく笑うようになっていた。
唐突に去来する、喪失感、飢餓感、虚無感、苛立ち、悲壮感は一瞬だけシェスに別の表情を浮かべさせるが、まるでそれが幻であったかのように、にんまりと蜂蜜色の瞳と薄い唇は弧を描き、蠱惑的で歪な微笑みにあっという間にすり替わる。
人であることをやめてしまってから何もかもが恐ろしくて遠くて悲しくて愉快で仕方がない自分が常に身のうちで笑い声を上げていて、何が愉快だというのかと呆れと恐怖を感じているかつての自分がまるで遠い他人のように感じて仕方がない。


先日雨が降った路地裏には、小さな水たまりがいくつかまだ残っていた。
木箱と木箱の隙間からそろりと這い出すと、白い蝙蝠の自分が水たまりの端に映り込んだ。


鏡に姿が映らなくなって久しいシェスだが、雨上がりの水たまりにはどうやら自身の姿が映るようで、たまに覗き込んでは自分の外観を確認していた。


けれど、人の姿のときに水でつくられた鏡をいつ覗き込んでも映し出されるのは、歪に笑う白い鬼の姿だけだったが。
姿が何にも全く映らなくなることと、なにかに姿が映ることで自分が異形と化したことを突きつけられることでは、どちらがよいのだろう。


水たまりに映る白いコウモリが自分を見ている。
蜂蜜色の瞳はどこか虚ろに揺れていた。


「あっ、まって、まって、いかないで……!」


「……、………?」


表通りの方から突如聞こえてきた声に、物思いに耽っていたシェスは白い耳をピクリと動かして木箱と木箱の隙間にさっと身を隠した。
聞こえてきた声は幼さを残していて、石畳を蹴る音は軽い。
どうやら子供が路地裏に入ってきたようだった。
シェスが身を潜めている路地裏は狭くて薄暗いのだが、子供は路地裏の薄暗さに怯えるよりも何かを追いかけるのに忙しいようだ。
転がる紅くて丸いものがりんごだと気づいたのはその直後だった。


(りんごか。もうずっと食ってねぇな。案外果物なら味がわかったりするんじゃねー、か…いや、待て、多くね?)


ころころ転がってきたりんごに、シェスは思わず反射的に身を乗り出した。
なにせ転がってきたりんごは五つだ。
どれだけ派手に落とせばそんなにりんごが転がってくるのか。
りんごを落とした子供は随分と間抜けなようだと失礼なことを考えながら、一つ拝借しようと、シェスは蝙蝠姿のままりんごにバサリと飛びついてそのまま飛び去ろうとした。


飛び去ろうとしたのだが。


「……!ギッ!!」


りんごが意外に重たかった。
そのうえうっかり目測を誤ってしまい、シェスはりんごの上をかすめて、その後べちんと壁にぶつかってしまったのだった。
無様である。


「………………」


突如物陰から飛び出てきた白い物体に、りんごを拾い上げていた子供はびっくりしたように固まっていたが、やがて壁にぶつかってひっくり返っているシェスにそろそろと近づいてきた。


「わあ、真っ白なこうもりだ。白いこうもりなんてはじめてみた…」


年齢は10歳から12歳ぐらいだろうか。
くすんだ金色の髪を揺らした子供がこちらを物珍しそうに見つめている。
肌は焼けているのか、うまれつきなのかやや浅黒い。
瞳は閉じているかのように細いがこちらが見えているみたいなので開いているのだろう。
シェスは無様な姿を見られたことに苛立ち、子供に飛びかかって泣かせてやろうかと思って視線を向けたが。


「―――――――、―――」


あるものが目に入った瞬間、頭の中が真っ白になった。


「あっ、もしかして、おれがおどろかせちゃったのかな!? ご、ごめんね、羽根、折れてたらどうしよう…っ」


子供があたふたとりんごを済に置いて、こちらに手を伸ばしてくる。
普段なら噛みちぎってやろうかと歯をむき出しにして威嚇するのだが、思考が凍りついていたシェスはそのままおとなしく子供に抱き上げられてしまった。


「ご、ごめんね。りんごたべたかったのかな…。でも、これはお使いで頼まれたものだからだめなんだ…」


申し訳なさそうに話しかけてくる子供の言葉はシェスの耳を素通りするばかりだ。
子供の胸元を信じられない気持ちで凝視する。




(………なんで)




首元にぶら下がっているそれをみてシェスは心臓が締め付けられるような気がした。




(…………………なんで)




ずっと昔にシェスがまだ人間だった頃拙い技術で作ったそれは、限られた相手にしか渡していないものだ。
全部で五つ。
色違いでつくられたそれは丁寧に持ち主の名前まで糸で縫ってあり、この世で一つずつしか無いものだ。




(…………………なんで、このガキが)




子供の胸元で、色あせた"亜麻色の布袋"が揺れている。




(レアンにやった巾着を持ってんだ………?)




そろそろと頭や羽根をなでてくる子供にされるがまま、シェスは呆然と眼の前で揺れる巾着袋を見つめていた。

PAGE TOP