赤い花びらが散った日(シェス)

シェスの話ですが、ほとんど別の人物視点の話です。全体的に暗いのと、痛々しい表現があります。「鬼が生まれるまで」と「在りし日の昼下がり」よりも後の話。

 

(……寒いなあ)


人通りの殆ど無い薄暗い路地裏にベロニカは横たわっていた。


(あと、痛いなあ……)


身につけていた黒を基盤としたオーソドックスなメイド服は、ふんわりとした長いスカートとフリルのついた専用の白いエプロンで構成されていたが、今はドロドロに汚れて見る影もない。
ベロニカの足と腕はあちこちに青痣が浮かび上がり、両足首は見るに堪えないぐらい腫れ上がっていた。
頭から流れていた赤黒い液体は少し乾き始めている。
血がこびりついた赤毛はところどころ凝り固まっていて、できれば洗い流したいが無理だろう。
断続的に途切れる意識は、ベロニカ自身に自分がもう長くないことを教えてくるだけで、他には何もしてくれない。


(あの高さから落ちたのに。私、意外と丈夫だったみたい)


雇い主に乱暴されそうになった後輩のメイドを庇って階段から転げ落ちたときの衝撃を思い出す。
打ちどころが悪かったらきっと即死だった。
でも、意識があるからといって身体は思うように動かないし、こんな路地裏の奥に捨てられてしまっては誰にも見つけてもらえないだろう。


(アンナ………)


自分より勝ち気で、理不尽には真っ向から立ち向かう親友の顔を思い浮かべた。
アンナとベロニカは同じ孤児院で育ち、姉妹のように、双子のようにずっと一緒に生きてきた。
孤児院を出て、今の屋敷でメイドとして働き始めてからもずっと一緒だった。


しかし、アンナは三年前に家督を継いだ今の主人に苦言を呈した結果、屋敷を追い出されてしまった。
下手に外聞が悪いことを流されたら困ると、適当に処理をしろという会話を聞いて背筋が凍り、ベロニカはアンナを探しに飛び出したがアンナを見つけることはついにできなかったのだ。
酷くて、悲しくて、悲しくて、自分がアンナの分も負けないようにしなければと、固く決意した。


(その結果がこれじゃ、だめだったかも。アンナは元気だったらいいな。ルギオにぃちゃんもレアンも元気かな)


幸せだった日々が走馬灯のようにベロニカの脳裏をよぎっていく。
ベロニカはピエタールという街の孤児院で暮らしていた。
あまり裕福ではなかったが、取り囲む人々には恵まれていたと今でも思う。
誰かと一緒に庭を駆け回って、誰かのために歌を歌って、誰かに髪を梳いてもらって。
たしかにあの日々はベロニカにとって幸せな宝物だった。


今の職場も、十八歳にやってきた当時は悪くなかったのだ。
前の雇い主は孤児院出身のベロニカとアンナにも親身に接してくれたし、身分の違いから雇い主と同じ食卓を囲むことはなかったが、使用人にも十分な食事を振る舞ってくれた。
どうしても価値観の違いで生まれが違うメイド同士の喧嘩が起きたりはしたが、それもときどきあるぐらいだ。


前の雇い主が病に倒れて、息子が後を継いでから状況は一変した。
気に入らない使用人は唐突に解雇し、時には権力を盾に暴力を振るう。
気になったメイドはメイド本人の意志に関係なく手を出す。
自分よりも弱い相手には高圧的に応対し、自分よりも格上の相手にはへりくだった態度で接する。
裏ではごろつきとつながりがあって、都合の悪いことはもみ消していた。
あの雇い主のせいで何人の使用人が人生を台無しにされただろうか。


一言で言えば最低な雇い主だった。


せめて一矢報いるぐらいはしたかったな、とアンナに比べれば気性が穏やかだったベロニカですら思う程の相手だった。


(でも、もう、身体、動かない)


このままゆっくりと死に向かっていくのだろうと、静かに絶望しているベロニカの近くで小さな物音がした。
閉じていた瞳をうっすらとあけると、視界に入ってきたのは誰かの靴だった。


(……だれか、きた、の?)


物盗りだろうか。それともこの辺りを拠点にしている浮浪者かもしれない。
でなければ、こんな薄暗い路地裏の奥に人など来ないだろう。
動けないベロニカに何を思ったのか、近寄ってきた人影は屈んでベロニカを抱き起こした。
フードを被った男性のようだ。
やたらと首筋に触れてくるのはなんだろうか。
まさかそういう目的で、もうすぐ物言わぬ躯になるであろう自分に?と思うとぞっとしたが、ベロニカにはもうどうすることもできない。
首に手を当てられて、男の顔が近づいてくる。
諦めたように再び瞳を閉じたベロニカだったが、男はそれ以上なにもしてこなかった。


(…………?)


怪訝そうにうっすらと瞳を開ける。
男はじっとベロニカの胸元を見ているようだった。
そこにはお守りがわりにずっと大事に持ち続けていた赤い巾着袋が胸元で揺れている。
ベロニカは今年で二十八歳になったが、毎日子供みたいに巾着袋を首からさげていたから、今までずいぶんと笑われた。
しかし、これはとても大事なものだからなくしたくなかったのだ。
孤児院にいた頃、自分と、後は四人にだけ、兄のように慕っていた彼が作ってくれた手作りの布小物。
名前だって刺繍で入れてくれた。
幼い頃から淡く柔らかな思慕をむけていた相手からの大事な贈り物だった。


動かない男の顔を見ようと、緩慢な動作で見上げたベロニカは静かに息を呑んだ。
霞む視界にフードで見えづらかった男の顔がみえる。
驚愕で見開かれた蜂蜜色の瞳が、十年前に行方不明になった、あの巾着袋をくれた、孤児院で一緒に育った、あの人のものと同じもので。


(…そんなはずない)


なぜならあの人はベロニカより四つ年が上だったから今は三十を過ぎた辺りのはずだ。
眼の前の男性はまるで行方不明になったあのときから時が止まったかのように、あどけない顔立ちのままだ。
だから彼のはずがない。


それに、ベロニカが兄のように慕っていた彼はやわらかい金色の髪をしてた。
フードの奥からサラサラと流れおちる髪は透き通るような白銀色だ。
髪の色がちがうのだからきっと別人だと思う。


でも。まさか。


「―――ベロニ、カ?」


震える声が呼んだのは間違いなく自分の名前で、聞こえてきた声は大好きだった兄代わりの人の声で。
「うん……」と答えたが果たして聞こえただろうか。


「ベロニカ、しぬ、のか」


蜂蜜色の瞳が三日月のように歪んで、薄い唇がぐにゃぐにゃと湾曲している。
その表情をベロニカは知っていた。
彼が孤児院でくらしていたときに、必死で泣くことを我慢していたときの顔だ。


「―――シェス、にぃちゃん」


髪の色が違うが、目の前のこのひとは間違いなく、自分が大好きだったあの人だとベロニカはわかった。


(ああ、この人、シェスにぃちゃんだ)


もう殆ど動かなかった腕が不思議と動いて、シェスのフードに手が届く。
シェスは微動だにしないでこちらをじっと見ている。
十年前と全然変わっていない顔でじっとベロニカを見ている。


(シェスにぃちゃん、本当はすごく涙腺が緩いんだよね)


ベロニカは知っている。
アトスが虹の橋を渡り帰らぬ人となった際、ベロニカだってすごく悲しかったがきっと一番悲しんだのはシェスだ。
なんでもないように振る舞って、みんなに「元気出せよ。アトスも困るだろ」と言った彼が一人孤児院の裏手で一人静かに泣いていたのをベロニカはずっと忘れられなかった。


(アトスにぃが神様のところにいってしまったあと、シェスにぃちゃん一人でこんな顔してたなあ。そうだよね、私にとってお兄ちゃんみたいだったのはシェスにぃちゃんとルギオにぃちゃんだったけど、シェスにぃちゃんにとって、お兄ちゃんみたいだったのはアトスにぃだったもんね)


孤児院では年上のこどもが年下の子供の面倒をみるのがごく当たり前のことだった。
孤児院の大人たちは子どもたちをぞんざいに扱ったりはしなかったし、できるだけ面倒を見てくれていたが、どうしたって人手は足りなかったのだ。
シェスやルギオにとって兄代わりだったのはアトスだったし、ベロニカやアンナにとっての兄代わりはシェスやルギオだったし、レアンにとっての姉代わりはベロニカやアンナだった。


「なんで、おまえ。こんな目にあってる」


シェスの声は色んな感情をぐちゃぐちゃにかき混ぜたような音をしていた。
ぼんやりと眺めていたベロニカはシェスの背中に白い羽根が生えている事に気がついた。
すこし硬そうで、例えて言うなら蝙蝠のような羽根だなとおもったが、真っ白な色をしているそれは、月の光を浴びてとても綺麗で。




「……シェスにぃちゃん、」







―――天使様に、なってたんだね。








もうすこしいろんなことをしたかったなとおもっていたが、兄のように慕っていた人が天使になって迎えに来てくれたなら案外悪くないかもしれない。
だってあんなに寒くて痛かったのに、今、ベロニカは寒さも痛みも感じなくなっていた。
きっと、シェスが魔法を使ってくれたのだ。
穏やかに神様のもとにいけるように。


(でも、でも、私のほうがお姉ちゃんになっちゃったなあ。お姉ちゃんっていうのもきびしいって言われちゃいそうだ。私のほうがお姉ちゃんになっても、また、髪結んでほしいな。シェスにぃちゃん器用だからいつも可愛く結んでくれたんだよね。あとピアノ弾いてほしいな。ピアノ弾いてるときのシェスにぃちゃん、美人さんだったもの)


「野郎に美人はねぇだろ」と不機嫌そうに眉根を寄せていたのを思い出して穏やかな気持ちになる。


(ああ、とってもねむい。もっとお話したいのに。ねえ、シェスにぃちゃん、私ね。結婚する予定だったの。ちょっと無愛想なんだけどホントは優しくて、顔は似てないけど雰囲気はルギオにぃちゃんっぽい人と。だめになっちゃったんだけどね)


「………ベロニカ」


また、あの声が名前を呼んでくれたのがわかった。
ベロニカは兄のように慕っていたシェスに名前を呼んでもらうのが大好きだった。


(なに、シェスにぃちゃん。…あれ、声が、出ないや。返事、できなくてごめんね)


ベロニカの口は動かなかったし、瞼はもう上がることはなかった。
頬に何かが触れるひんやりとしたそれがなにか、もうわからない。















薄暗い路地裏で、赤毛のメイドが一人静かに息を引き取った。




















「ねえ、知ってる? ほらあそこのお屋敷の……」 
「ああ、先代はすばらしいひとだったのに、息子はどうしようもないのよね。街の女の子に乱暴したとか、店の商品に難癖つけて台無しにしたとか」
 「傍若無人で権力に物を言わせてさあ。使用人への態度も最低だったみたいだし。正直街に出てきてほしくないわ」 
「しーっ。あまり大きい声で言わないの。でも、そのご子息様だけど。殺されたらしいわよ」 
「えっ!?」
 「ご子息様の遺体、ひどかったみたい」 
「やだ、こわいわ」 
「ずたずたに切り裂かれてたとか。今、家督をどうするか大騒ぎよ」
「私怨かしらね…誰がやったのかしら…」
「それが、部屋には鍵がかかってたんですって。窓もしまっていたし。だから気味が悪いのよね~」


表通りで噂話に花を咲かせる女性たちの横を、フードを被った青年がふらりと通り過ぎた。
女性の一人が何気なく視線を向けて、フードの下にみえる艷麗な顔立ちに思わずほうっとため息をつく。
それに気づいた青年は、蜂蜜色の瞳を三日月のように細め、蠱惑的な笑みを浮かべて応えると、そのまま雑踏の中へ霧のように消えていった。
女性たちは通りがかった青年の美貌にひとしきり盛り上がったが、しばらくするとまた他愛のない噂話に花を咲かせ始める。















雑踏に消えゆく青年の胸元には、色あせた赤い巾着袋が静かに揺れていた。

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