雪解け羽 中編

 

 

 

「………」

ひゅー…と風のような音がベッドに寝かされたサナギの喉から漏れる。 
買い取った直後に比べて多少血色が良くなったはずの顔色は悪く、目を閉じたまま浅い呼吸を繰り返すばかりで。 
それでも苦しげな表情を浮かべるわけでなく胸を上下させるだけのサナギは、故障した機械のような無機質さを感じさせた。 
傍らの椅子に腰かけてそれをみつめるリジィの表情は固い。 


(なんだ。何が原因だ? 予兆などなかった。なかったはずだ) 


リジィの表情は面倒だと顔をしかめているように見えたが、その胸中は激しい動揺に満ちていた。 
他人を気にかけたことなどほとんどないから気づくのが遅れてしまったのだろうか。 
サナギの顔色は悪い。 
酷く狼狽している自分に動揺する。 
自分が体調を崩したわけでもないのに。なぜこんなに心が乱れるのかわからない。 


――わからない。どうすればいい。 


幼少時から病弱で体調を崩しがちだったリジィは、多少ではあるが医学の心得を持っていた。 
自らの経験に基づいて、たまに依頼や人づてに頼まれたいくつかの症状に対して最善の対応を行い、対価を受け取ったこともある。 
子供がかかる病気にもいくらか心当たりはあった。 

ただし、それは【人間の】子供の話だ。 
サナギは前提条件から既に外れている。 
サナギのその有り様に興味を惹かれ、面倒を見る合間に文献を漁った結果、その正体をほぼ特定することができた。 

合成獣、またはキメラと呼ばれるもの。 
それが、サナギだ。 

どす黒く変色した腕や脚。 
無数に生えた黒い腕のような影。 
爬虫類の鱗のようなもので覆われた翼。 
ところどころに浮かび上がる鱗のような模様。 
傷んだ緑髪がザワザワと音を立てて、まるで植物の葉のような物へとかわっていく姿。 

奴隷の収容所で変貌した姿は、確かに様々な生物の特性が歪に組み合わさっていたので、概ねリジィの予想はあたっているのだろう。 
つまるところサナギが今こうして臥せっている原因や対処法は、リジィの今までの経験が当てにならないということだ。 
自分がわからないのだ。そのあたりにいる医者ではそれこそ役に立たないだろう。 
加えてサナギは普段はおとなしく感情をほとんどあらわにしないが、特定の条件が揃うと非常に不安定になり体の一部が変貌したり、うめき声を漏らすことがある。 
白い服、具体的に言えば白衣。 
鋭利な針、具体的に言えば注射器。 
サナギは、研究員または医者という存在に拒絶反応を起こすようだった。 
診療所に連れて行って不安定になったサナギがまた変貌するようなことがあれば、そこから厄介事に巻き込まれる可能性もあるのだ。 

「…、……」 

青いローブを静かに握りしめる。握りしめた部分は皺になっていた。 
他人に頼りたくなかったから知識を蓄えてきた。 
最低限の付き合いしかこなさなかった。 
それが裏目に出るなんて、リジィは思いもしなかった。 

サナギが倒れたことを知り、今リジィたちが拠点としている宿――輝く大鷲亭の亭主が気遣うように声をかけてきたが、それなりに長く利用し言葉をかわしている亭主にさえリジィは完全に心を開くことができず、一言二言礼と謝罪を述べるのみで。 

(消耗したのなら買い換えればいい話だろう。確かに興味深い生態ではあるが…) 

今までならそうしていた。 
リジィにとって自分以外の生物は等しくどうでもいい存在で、自らに危害が及ばなければ相手が幸福だろうが、そうでなかろうが関係なかったからだ。 
例えば道端で子供が迷っていても声などかけずに放置して立ち去るだろうし、暴漢に善良な一般市民が絡まれていても気にもとめないだろう。 
テーブルの上に置かれているスケッチブックが視界の端に入り、言いようのない感情がリジィの中で渦巻く。 
サナギの身体からか細い声が頼りなく溢れていくのを見る度に、リジィは苛立ちを覚えた。 


…厳密に言えばそれは苛立ちではなかったのだが、ここにそのことを指摘してくれる者はいない。 


「…こうしていても何も変わらんか」 

ゆっくりと息を吐いてひんやりとした青い瞳を細める。 
魔石を手に取り、すっと口元に当てる。 
リジィの瞳は落ち着いた青から極彩の天色に変化しており、毛先は青白く発光していた。 

「――、―――、―……」 

凛とした低い声が常人では理解できない音を紡ぎ、呼応するように魔石が光を帯びていく。 
魔石からふわりと浮き上がった不定形の塊が、やがて一羽の青い鳥に姿を変えて、羽音もなく窓から飛び去っていった。 
それを見送るリジィの表情は不機嫌さを全面に押し出している。 

「あの女に連絡を取りたくはなかったのだが…。仕方があるまい…」 

浅い呼吸を繰り返すサナギを静かに見つめる。 
床に伏した姿は在りし日の自らと重なり、リジィは苦々しく息を吐いた。 











「こんばんは」 


その晩、コンコンと音を立てて、二階にある寝室の窓から女の声が聞こえた。 
妙齢の美しい女だった。 
燃えるような赤い髪と褐色の肌、吊り上がった猫のような金色の瞳、シンプルな服に身を包む豊満な肢体は男性の視線をひきつけてやまないだろう。 

――リリチシャ・プルプレア。色毒の魔女。 

リジィが連絡をとった女の名だ。 
リリチシャは時間にだらしがない女だったので、リジィが放った使い魔が持ち帰った返事どおりの時間にやってきたことに内心驚く。 
無言で軽く顎をしゃくると、隔てられた窓がまるでそこになかったかのようにするりと女が入ってくる。 

「ひさしぶりね?それともこの前会った?大きくなったわね、フローゼ。どうして時間を止めないの?私達みたいにい時間を止めてしまえばいいのに。そうしたらずっと好きな姿でいられるのよ」 
「…私はフローゼではない。時間を止める?バカげたことを…私は人間だ。魔女ではない。そのようなことはできんわ」 

顔を合わせた途端ぺらぺらと話し始めたリリチシャをリジィはうんざりとした顔で見つめる。 
リリチシャはリジィを産み落とした魔女――フローゼ・ジギタリスの知人らしく、屋敷を離れて魔術機関に身を置いたリジィにコンタクトを取ってきた。 
始めはあまりの胡散臭さに全身から警戒心を顕にしたが、貴重な魔女の情報源として利用するのも悪くはないかと状況に甘んじることにした。 
リリチシャは気まぐれな女だったので、こちらからコンタクトをとっても反応を返してこないことも多かったが、それでも比較的優遇しているとはリリチシャ本人の談だ。 

「あら、でもあなた、名前にフローゼって入ってるじゃない。それなら間違ってないでしょう?」 
「減らず口を…。君は私を私の母と混同しているのではないか?」 
「そんなことないわ、フローゼ。だってあなたを生んだフローゼはあなたよりもう少し小柄だったし、そんなに声も低く無かったわ。いやならリジェミシュカってよんであげる。それともリジィがいい?最近そういう名前で通してるのねえ」 
「どこまで把握しているのか…全く気味が悪い女め。当たり前だろう。私はそちらがいうフローゼとは違う。そもそも性別が異なる」 

地に足がついていないかのようなやり取りに頭が痛くなる。 
このままでは一向に本題に移れない。そう判断したリジィは本題を切り出すことにした。 

「…、人の常識が通じない子供が体調を崩している」 
「子供?産んだの?」 
「産まんわ!…いろいろあって引き取った」 
「あなたが?子供を?道端で子供や老人が死にかけていても気にしないあなたが?」 
「黙れ、茶化すな」 

イライラしながらリリチシャを睨むと、ふふっとわらって肩をすくめられた。 
顔には面白いおもちゃを見つけた子供のような表情を張り付かせている。 
助言を乞う相手を間違えたか、とリジィは心底後悔したが後の祭りだ。 

「ふーん? 見せて」 
「む…」 
「なーに、その、意外そうな顔。だってあなたが、子供をひきとって?しかもその子供が体調を崩したからって、私を頼るなんてすごくめずらしいことじゃない。どんな子供なのか気になるでしょう?」 
「…そこの寝台で寝ている。変な真似はするなよ」 
「しないしない。でもそんなこというなんて、ふふ」 
「気味の悪い笑いを浮かべるな」 
「ひどいわねえ。どれどれ…」 

まるで子育てをしていて気がたっている親猫のように神経をとがらせているリジィに、リリチシャはにこにこと人が悪い笑みを浮かべた。 
生まれたての子猫を覗き込むかのように、リリチシャは静かに息を吐いているサナギを覗き込み、ぱちりと金色の目を瞬かせた。あまりみない表情に、リジィも訝しげにリリチシャをみやる。 

「へえ…面白い子供拾ったのね。イロイロ混じってるわ」 
「…、…」 

肯定代わりに沈黙を返す。 
人間であるリジィがサナギに対する違和感を感じ取った以上に、この魔女はサナギがどのような生き物であるか理解したのだろう。 
だからこそ、面倒だったがこうして呼び寄せたのだが。 
自分では知りえないことをこの女であればわかるだろうと、そう思って。 

「それで。サナギはどういう状態なのだ」 
「サナギっていうのこの子」 
「どうでもよいだろう」 
「はいはい、そんなに威嚇しないの。そうね、これは…【魔力切れ】ね」 
「魔力、切れだと? あれはどちらかといえばエルフや魔法生物の類が発症するものだろう。あとは君のような魔女とかな」 

魔力切れ――。 
魔を糧とする生物、もしくは魔力に依存して生きる種族が引き起こす症状だとリジィは学んでいた。 
体内の魔力が極端に枯渇し、意識の酩酊、ふらつき、幻覚症状、衰弱などの症状が現れる。 
人間で言えば栄養失調や血糖値の低下がイメージにちかいだろうか。 

「サナギにその類の生物が組み込まれているということか?」 
「そうね~。スキアストーカ-の気配がするからそれかしら」 
「スキアストーカー…。影の魔物か。いったいどのようにして組み合わせたのか」 
「気になるなら解剖してみたら?」 
「………」 
「無言で毛を逆立てなくてもいいじゃない、こわいわねー!あ、でもそうするとやっぱりフローゼにそっくりだわ」 
「黙れ」 
「はいはい。スキアストーカーの説明は必要?」 
「いらん」 
「博識ね」 

――スキアストーカー。 
影の魔物。黒い影のような平べったい見た目をしており、普段は黒い水たまりのようにしか見えない。 
しかし一度近づけば、のっぺりとした黒い面から無数の黒い腕のようなものを伸ばし獲物を捕獲する。 
捕獲した獲物が潤沢な魔力をもっていれば魔力を奪ったあと開放するが、魔力を持たない場合はバラバラに引き裂いてそのまま捕食する恐ろしい魔物だ。 
基本は洞窟のような薄暗い場所に生息しており個体数も多くない。 

(そういえば、あのとき確かに無数の黒い腕のようなものをはやしていたな…) 

ふと、奴隷の収容所であった出来事を思い出す。 
今思い返してみれば、あの無数の黒い腕のようなものはスキアストーカーの特徴に酷似していた。 

「つまり、だ。魔力を与えればよいのだな?」 
「そうだけど。与え方、知っているの?」 
「……………」 
「知らないのね? いいわ、教えてあげる」 
「…何を企んでいる。君が無償でここまでするとは到底思えん」 
「ひどいわ」 
「あとでとんでもない要求を押し付けられてはかなわん。何が望みだ」 
「信用されてないわね~。まあでもあなたの場合私に限ったことじゃないのでしょうけど」 

肩をすくめながら、リリチシャはリジィに視線を向けた。 

「髪、髪が欲しいわ」 
「…、は…?」 
「あなたの魔力って魔女や使い魔にはすごく魅力的に見えるのよ。顔はともかく」 
「さりげにけんかを売っているのか?」 
「冗談よ。フローゼにそっくりなんだから顔も悪くないわよ。人間の美的感覚と魔女の美的感覚が同じかはしらないけど」 
「…、……。それで、髪といったか」 
「ええ。べつに丸坊主にしたいわけじゃないわ。そうね、一房……」 


――ジャキンッと金属と金属が交差する音が響いた。 


「ふん。これぐらいならばくれてやる」 

なんということでもないように、リジィは青白く発光した黒髪をひとつかみ、リリチシャへと差し出した。 
肩まで伸びていた髪は、今は項に掛かる程度になっている。 

「………」 
「一体どのような無理難題をふっかけてくるかと思えば、たいしたことではなかったな」 
「驚いた…。あなた髪に触られるのも、こういう要求されるのも嫌いだったじゃない」 
「あえて条件に出すそちらもそちらだと思うが?…待て、何故私が髪に触れられることを嫌うのを?」 
「あなた、人間に囲まれて髪を毟られそうになったことがあるでしょう?」 
「…、…っ!」 

リリチシャが言っているのは、少し前にリジィに起こった忌まわしい出来事のことだろう。 
もしや見ていたのか、悪趣味な。と苛立ちを隠せずにらみつける。 

サナギを買い取る少し前、リジィはガラの悪そうな人間に複数囲まれる自体に陥った。 
その日リジィは体調が優れず体内から魔力が漏れ出しており、毛先は青白く発光し、瞳は天色からもとに戻らなくなっていた。 
それに目をつけられたらしい。 
青白く発光する黒髪が物珍しいと、押さえつけられて髪を引きちぎられそうになったのだ。 
複数人に囲まれる恐怖と嫌悪感は今もリジィを蝕んでおり、他人に触れられることへの激しい拒絶につながっている。 

そのときは恐怖で魔力のコントロールができなくなり、暴漢(女もいたかもしれないがよく覚えていない)すべてを反射的に精神崩壊させ廃人にしてしまった。 
―昔、似たようなことがあった気がするが、思い出せない。 
意味のない言葉を漏らして転がる暴漢達を、道端の石をみるよりも冷ややかに見下ろしながらそうそうにその場を立ち去った。 
罪悪感はなかった。息の根を止められなかっただけでもありがたく思えと考えるぐらいだ。 

「人間って怖いわよね。自分たちを正当化して数の暴力で襲いかかってくるんだもの」 
「……」 
「対価はもらったわ。じゃあ、魔力を与える方法だけど――」 

方法は至極簡単なものだった。 
サナギの近くで魔力を表に多めに出す。 
サナギの腕や脚が黒く変色し、腕のようなものが伸びてくる頃合いを見計らってサナギの能力を少々封じる。 
そのあとは腕に魔力を送り込んでいくだけだ。 
あなたの魔力だからできることだけどね、と傍らでつぶやくリリチシャを冷たくあしらいながら、少しずつサナギに魔力を渡す。 
黒く変色した液状とも固体ともいいがたい材質の無数の腕はストローぐらいの小さなサイズになり、魔力を滲み出したリジィの手や指に巻き付いている。 

「その子はいいんだ?」 
「…? 何がだ」 
「こっちの話。あと、この子腕に入れ墨あるでしょう」 
「…ああ」 

サナギにはこれまでの経歴から無数に付けられた傷の他に、入れ墨のような文様が身体に刻まれていた。 
背中と両腕併せて3つ。 
赤い文様は全貌をまだ把握しきれていないが、混ぜ合わされた遺伝子のどれかの影響だろう検討をつけている。 

「サービスで魔女特性の包帯ををあげるわ。これにあなたの魔力を練り込んで腕に巻いてあげれば、精神的にも能力的にも安定するわよ」 
「…、ほう。わかった」 

徐々にサナギの顔色がよくなっていき、呼吸も安定したものへと変わっていく。 
みつめるリジィの表情は「手間のかかる…」とでもいいたげに不機嫌さを隠していなかったが、無数の腕がリジィの手に幼子のようにまとわりついているのをある程度好きにさせていたり、冷然とした瞳の奥は安堵の気配が垣間見えて。 
リリチシャは不思議なものを見るかのように瞳を瞬かせていた。 

「ねえ、人間社会って面倒そうだし、いっしょにこない? 私、フローゼのこと、結構好きだったのよ。だからあなたの面倒を見てあげてもいいし、その子供も一緒でいいわ」 
「断る」 
「早くない?」 
「…その手の言葉は嫌というほど聞いているのでな」 
「ああ。そういえばあなた弟いたわね。随分と干渉されているのね」 
「弟などいない。あれは他人だ。…おそらく、私のことが疎ましいのだろう」 
「辛辣ねえ。取り入って利用するのもありだと思うけど、あなたそういうの嫌がるものね。でも、本当にもったいないわ。あなたが切ったこの髪だって、あなたから離れても魔力を潤沢に含んだままだし。それだけあなたの魔力って質がいいのよ?」 
「……」 
「こっちは気ままよ。みんな好き勝手に生きているわ。誰も他人を気にしないし、意味もなく目の敵にしたりしないし。その子供を連れてこちら側においでなさいな」 
「魔女のもとに下れとでも?」 
「あなたが魔女になればいいのよ」 
「私は男だが?」 
「私達がいう魔女っていうのは俗称であって、別に性別限定しているわけでもないのに」 
「どちらにせよ私はそのようなものになならん」 
「ここは、居心地悪いでしょう?」 
「…、……」 

ぐっと、押し黙る。 

「それに、あなたもフローゼみたいに強い生き物と契約したほうがいいわよ。魔力が強すぎて身体が悲鳴を上げているじゃない。契約すれば多少は安定するのに」 
「最近は安定している。契約などしてみろ、君がいう魔女というものに片足突っ込む自体になりかねんのだろう」 
「あら、ばれちゃった。けど、そんなに毛嫌いするものでもないのよ? あなたが望めばきっと大人気で行列ができるだろうし、選び放題なのに」 
「悪魔だのなんだの呼ばれる異形にか? 気味の悪いことを言うな」 
「あなたを守ってくれるわよ。面倒な人間社会から。あなたが大嫌いな人間から。もう突然"取り上げられる"こともなくなるのよ」 
「…、……」 

リリチシャの金色の瞳がリジィの青い瞳を覗き見る。 
リジィの瞳は先程サナギに魔力を与えていたせいか、鮮やかな天色を保ったままだ。 

「…私は」 
「…、り、じ」 
「…!!」 

たどたどしく聞こえた声に、リジィの意識は一気に寝台へと向いた。 
顔色がだいぶよくなったサナギは静かに寝息を立てている。 
もう、大丈夫そうだ。 
一つ息を吐くと、リリチシャへ向き直る。リジィの瞳は天色から落ち着いた青へともどっていた。 

「契約などせん。余計な荷物が増えるだけなのでな」 
「そう? 残念。でも、そうね。その子供のほうがとんでもないかもしれないわね。じゃあ、私は帰るわ。またね」 
「こちらはあまり会いたくないがな」 
「ひどいわね~」 
「だが…」 
「…?」 
「………たすかった」 
「……どういたしまして」 


ニンマリと笑いながら、リリチシャはそのまま夜の闇へと消えていった。 
涼しくなった自分の首元をするりと撫でる。 
肩あたりまで伸ばしていた髪には理由があったが、あの場で他の条件を要求した場合にもっと無理難題が来る可能性を考慮すればこの程度ですんでよかったのだろうとリジィは自分を納得させた。 









「…、ぐ…」 


あれから数日。 
激しい吐き気、頭痛がリジィを苛んでいた。 
この症状には覚えがある。幼少時からずっと自分を苛んできた強大な魔力ゆえの代償。 
体内の魔力濃度が高まっている。 
加えて循環がうまくいっていないようで、ところどころに淀みや過剰な流出が見受けられた。 

「髪、か…っ…」 

原因はわかっていた。 
今では項の後ろにかかるぐらいの長さになっている髪は毛先どころか頭の半分まで青白く発光している。 

リジィは髪を伸ばし、表面から少しずつ魔力を流出させ循環の補助にしていた。 
それを突然短くしたことにより、装飾品だけでは魔力の循環ができなくなったのだろう。 
歳を重ねれば、やがて魔力が枯渇して、安定するとばかり思っていたが、甘かったらしい。 

装飾品もサナギを買い取ってからは少しずつ売り払ってしまっていた。 
人がひとり増えると、思いの外出費が重なることを知った。 
だからといって今更サナギを、本人が望まない限りどこかに売り渡すつもりはいまのところないが。 

「…、髪を即座に伸ばす術は知らん、な…。そもそも身体の一部の成長を強制的に促進させるのは負担がかかる。ともすれ、ば、なにか装飾品を増やすか、あるいは魔力伝導率、が高い素材を工面するか…」 

起き上がれないほどではないし、症状は断続的なものだ。 
それでも道端で突然ふらつき座り込んでしまうことも少なくない。 
すぐさま生命の危機に瀕するわけではないが、対策を講じなければずっとこのままだろう。 

「そういえば…、最近魔喰い鳥の希少固体がでる、と誰かがいって、いたな…。あれの羽ならば、どうにかなるかもしれん…。依頼を出す、か…。これではまともにサナギの面倒を見れん」 

体調を崩して思考がまとまらないリジィは気づいていなかった。 
いや、体調を崩していなくても気づかなかったかもしれない。 
リジィは他人の心の機微に疎い。それがたとえ自分が珍しく気にかけている相手でも。 


ここ数日顔色が悪いリジィをずっとサナギが見つめていたこと。 

リジィのために水を汲んで扉の前に立っていたこと。 

常人よりもずっと感覚が鋭いサナギが、今のつぶやきを聞いていたこと。 


カタン、と部屋の外から音がし、リジィがよろよろと立ち上がる。 
扉を開けるとお盆に入った水入りのコップが置かれていた。 


「………サナギ?」 


お盆の横には、開かれたままのスケッチブックが置かれていた。 
お世辞にも上手いとはいえない文字が白い紙の上で踊っている。 
非常に読みづらい字だったが、サナギに文字を教えてきたのはリジィだ。 
サナギの描いた悪筆だろうが読めないことはない。 

「…、……」 

単語、単語の断片的な文章にもみたないそれに目を通し、 

「……!」 





リジィはそのまま外へと飛び出した。 

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