雪解け羽 前編

 

リジィがサナギを買い取った頃の話。
朝を連れてきてくれた人の続きの話のような。

 

――面倒なことになった。


それがそのときリジェミシュカが感じた正直な感情だった。 


――後先考えぬ行動は避けていたというのに…。 


一歩引いた距離を保ちながら自分に付き従うように歩いている子供の気配を感じながら、リジェミシュカはひっそりと息を吐いた。 


【リジェミシュカ・フローゼ・アンロリッシュ】 


閃光と紅炎を携えし煌火の魔剣士一族のアンロリッシュ家前領主のもとに、長男として産まれたのがリジェミシュカだ。 
悪魔と契約したといわれる蒼闇の魔女の血を引き、青みがかった黒髪と人の身には不相応の魔力を有したその容姿と体質は異端児として扱われた。 
アンロリッシュ家及びこの地域一帯では金髪が一般的であり、他の色合いの髪も少なからずいるが、黒髪のものはほとんどいない。 
黒髪は魔女の象徴と呼ばれる不吉な色として扱われていた。 

アンロリッシュ家を離れる前は長男であるが妾の子、それも魔女の血を引く異端として、特殊な立ち位置ゆえに軟禁に近い扱いを受けていたし、幼少時は比較的仲が良好であった腹違いの弟である、リラメイア・ファルファラ・アンロリッシュとは今では顔を合わせれば互いに嫌悪感を顕にした刺々しい会話の応酬になる険悪さだ。 

きっと長男として産まれた自分が疎ましいのだろう。 
それも栄光ある魔剣士の家に産まれたのにその属性はどちらかといえば忌避されかねないものばかり。 
一度暴発すれば、屋敷そのものを破壊し、被害は領地や領民に及びかねない。 
現在若くして跡を継ぎ、領主として君臨しているリラメイアからすれば、そんな爆弾のような存在は邪魔でしか無いのだろうと、自分に対してこき下ろすように嫌味や皮肉をぶつけてくる異母弟を脳裏に浮かべ、リジェミシュカは忌々しげに瞳を眇めた。 
だから顔を合わせないようにあの家を出たというのに、事ある事に居場所を特定しては干渉してくることに苛立ちすら覚えている。 

あの腹違いの弟が考えていることがリジェミシュカにはわからない。 
決定的な溝ができた出来事があった気がするが、その時の記憶は曖昧で、それがまたリジェミシュカを苛立たせた。 

膨大な魔力量に対して脆弱な人間の器が適応できるはずもなく、幼少時は常に暴発の危険と隣り合わせだったのも記憶に新しい。 
いったいどんな能力を持った魔女が自分の生みの親だったのだろうか。 
リジェミシュカは母の顔も声も知らないが、良く言えば自由奔放、悪く言えば気まぐれで身勝手な女性だったらしい。とは聞いた。 

自らの魔力をコントロールできるようになるために、また危険性を考慮した結果、リジェミシュカはアンロリッシュ家を離れて魔術機関でコントロールを学んだ。 
大量の魔石、魔力の循環技術の向上によって、現在は日常生活を送る程度では支障が出なくなったが、それでも多少の感情の揺れで自分の意志とは関係なく魔術が発動する可能性がある。 
暴発すれば周辺への被害はもちろんのこと、その身も滅ぼしかねない。 
リジェミシュカはまわりがどうなろうとどうでもよかったが、自らの身も滅ぼしかねない魔力は正直持て余し気味だった。 
純度の高い魔力を内包している生命体というのは、興味がある輩からすれば興味深い存在なのだろう。 
その手の人物に不躾な態度を取られたことも少なくない。 

最近リジェミシュカが滞在しているこの街は、アンロリッシュ家が統括している領地からは遠く、また治安もあまり良くない。 
居心地が良いとは言えなかったが、まだ領主を継いで間もないリラメイアがここまで来ることは難しいだろうという理由だけでしばらくここに滞在を決めた。 
路地裏を覗けば赤黒く汚れた大きなゴミが転がっていることもあるが、自分に被害がなければわりとどうでもいいことだ。 
時折暴力的な腐敗臭がするのはたまったものではないが。 

ちらり、と、自分のあとをついてくる子供の方へ視線を向ける。 
身長100センチにも満たない身体は無数の傷が刻まれガリガリで骨ばっている。 
濁った血のような赤い瞳はこちらをみているのか虚空を見ているのか判別が付きづらい。 
10人に聞けば、10人「気味が悪い」と顔をしかめるような、そんな風貌と雰囲気をもっている子供だった。 
【371】と呼ばれていたその子供は、先程リジェミシュカが勢いで購入した奴隷だ。 


――奴隷はいいですよ。力仕事、身の回りの世話、いざというときの身代わり。どうでしょう。見るだけでもいかがですか? 


他人を傍に置くなど、リジェミシュカにとっては苦痛でしかなかったが、魔力に振り回され、魔力に頼って生きてきた身体は、純粋な力を振るうにはあまりにも頼りなく。 


――それに奴隷は主人に絶対服従です。裏切りませんし。 


胡散臭そうな男に声をかけられて辟易としていたリジェミシュカは、途中で聞こえたある言葉に微かに興味を抱いた。 
ましなものがいれば、買ってやってもいい。屈強で盾になるようなものがいればいざというときに便利だろう。 
…それがなぜこんな年端もいかない子供を買い取ってしまったのか。 

男―奴隷商人―が案内したのは薄暗い地下牢のような場所だった。 
カツカツと冷たい石畳の通路を歩きながら、様々な商品がこちらを怯えるようにみていたり、敵意を抱いて見つめてくる中。 
突然、服の裾を掴まれた感覚に不快感をあらわに見下ろした。 
視線の先にはみすぼらしい子供の姿。 
濁った血のような赤い瞳、ボロボロに薄汚れた布に覆われた傷だらけの身体、くすんで汚れが染み付いた苔のような髪。 
人の良い人物が見ればその痛々しさに思わず目をそらすような風貌だったが、正直リジェミシュカはただ薄汚い子供だなとしか思わなかったし、服が汚れる、気安く触れるなと一蹴し、即座に振り払ってしまおうと思っていた。 

――その目をみるまでは。 

リジェミシュカは類稀なる魔力の恩恵に様々な能力と代償を自らの身体に有していたが、そのうちのひとつに【看破】という能力がある。 
ある程度ではあるが、人間もしくは無害な生き物に擬態したものの正体を見極めることができるといったものだ。 
ただ、自らよりも強大な魔力を持っていたり、体調が優れなかったり、格上の相手が対象のときは把握範囲が狭まり、多少の違和感を感じると言った程度になってしまうが。 

リジェミシュカはこの能力によって他人の悪感情も感じやすい体質になっており、他人に対する不信感に拍車をかけている。 
濁った血のような赤い瞳の奥に感じ取ったのは、複数の異様な胎動。 
本来組み合わさることがなかったはずの組織を無理やりつなぎあわせたような歪な気配がリジェミシュカに伝わってくる。 
それが人工的なものであればまだ納得のしようがあったが、それは、そのように産まれたかのように、歪ながらも強くつなぎ合わせてあり、一つの生命個体として成り立っていた。 

他人に触れられるのを極端に嫌っていたが、あまりの異様さに拒絶する気も失せてしまったし、正直に言えば微かに興味を抱いた。 
興味をいだいたから、だろうか。 


「お前のようなおぞましい【化物】――!」 
――あの魔女と瓜二つなんておぞましい、この悪魔め! 


その後の奴隷商人の言葉が、かつて自分へ向けられた言葉と重なり腹が立ち。 


「ウ…、うぅ…」 
―苦しい。好きでこんな体になったわけでもないのに。 


自らの意志とは関係なく、その身に宿した力でなにもかも歪められたであろううめき声をあげるその姿に何かを思い出し。 


「あれはいくらだ」 
そう、口にしてしまった。 











「…、……」 
「…、……」 

宿へ向かう途中、リジェミシュカと371と呼ばれていた子供は一切言葉をかわさなかった。 
この子供がまともに話しているのをリジェミシュカはまだ見たことがない。 
喉でも潰されているのだろうか、そういう奴隷もいるのは知っている 
子供の服はボロ布、髪はまともに洗われていないのかきしんで固まっており、包帯は赤く黒ずんでいる。 
はっきりいって不衛生にもほどがあり、潔癖の気があるリジェミシュカにとって見るも耐えない状態だ。 

(はやくまともな状態にせねば、歩かせることすらままならんな) 

今までであれば、買い取った金をドブに捨てることになろうともさっさと放逐していたのに、この子供に対して連れ歩くという意識が芽生えていることにリジェミシュカは気づいていない。 
宿に戻り、子供の喉に異常がないのを確認した後、奴隷と主人の間に結ばれた隷属契約を解除した。 
隷属契約は、主人の命令にはなにがあっても逆らえない、呪術の一種だ。 
施行されれば、たとえ自害を命じられても奴隷はそれを実行しなければならない。 
これを施されることにより、奴隷はより自分の立場に絶望し、意思を折られ、主人に忠実にならざるを得なくなる。 

それをおもむろに解いてみた。 

牙を向けば再びかけ直してもいいし、なんならそのまま処分してしまってもいい、それぐらいの力はリジェミシュカにある。 
もし、自らを売り渡した奴隷商人に復讐をのぞむのであれば好きにすればいいし、そのまま逃げ出しても別に構わなかった。 
しかしそこになんの自我も感じられなかったのに少なからず落胆したのは何故だったのか。 


「今日から君の名は【サナギ】だ。私のことはリジィと呼ぶように」 


気を取り直して、番号で呼ぶのも味気ないと子供にサナギという名前を与え、ついでに自らの名前をリジェミシュカではなくリジィという略称で呼ばせることにした。 
自分の名前自体に思うところはなかったが、名前のみ聞いた者が確実に自分の性別を間違えるのに辟易としていたので、これを機会に今後何かに名義を登録するときは略称を使おうと思っていたところだった。 
もちろん、公的な書類にはさすがにフルネームを記載するが。 

その後はサナギに軽く水浴びをさせ、服を与え、食事をともに摂るところから始めた。 
他人のために自分の時間を割くというのは正直面倒なものだったが、食器を、服を、自分の服の裾を持ったまま、こちらをじっとみつめてくる子供の、サナギの赤い瞳はあまりにも無垢で。 
気づけば少しずつものや知識を与えるようになっていた。 











「サナギ」 

明くる日、スケッチブックに無心で何かを描いているサナギにふと声を掛ける。 
以前、木の棒で地面に描いていた絵が随分とできが良く思わず感心して褒めたところ、サナギは暇があれば地面に絵を描くようになった。 
石畳と土の違いを知らなかったのか、石畳に木の棒を押さえつけて描こうとしていたのをみて、リジィは頭を抱えながら材質の違いを教え、一冊のスケッチブックを買い与えることにしたのだ。 
ちなみにリジィが絵を描くと、まるで悪魔の儀式を行うかのような物が出来上がる。 
本人は普通に描いているつもりなのだが?と納得していない。 

「…、…描く、した」 
「描いた、だな」 

ぽつりとつぶやくサナギは、まだ言葉が不自由なところも多いので時折こうして正しく教え直す。 

「描いた」 
「うむ。それで良い。で、何を描いたのだ?」 

濁った赤色の瞳がじっとリジィを見て、スケッチブックを静かに差し出した。 
虚ろな表情はそのままだったが、仕草がみてほしいと訴えているのだとわかる。 
リジィはスケッチブックを受け取り視線を落として、なんとも言えない表情で呟いた。 

「私だな…」 

スケッチブックにはページいっぱいにリジィの姿が描かれている。 

木炭のようなもので描かれたそれは、陰影がしっかりと書き込まれており本人の特徴を完璧に掴んでいた。 
子供が描いたとは思えない出来栄えだ。 

常であればその完成度に対して感動を覚えるものだが、リジィは手放しで褒めるわけでもなく視線を泳がせている。 
戸惑いはそのまま口をついて転がった。 

「…サナギ、このスケッチブック、私しか描いていないのではないか?」 

そう。買い与えたスケッチブックはすでに半分までサナギが描いた絵で埋まっていたが、そのすべてがリジィで埋め尽くされているのだ。 
よく見ているようで、ほんの少しの表情変化すら紙の上に描写されている。 

――地面に描いていたのも私だったな…。 

嫌な気分はしない。くすぐられているようなもどかしい感覚がそこにあるだけだ。 
その感覚を表す言葉を、リジィは知らない。 
しかし、なぜ自分ばかり描くのだろうか。それがリジィにはわからなかった。 

反応がないのをどう捉えたのか、サナギは少しだけ首を傾けてじっとリジィを見つめていた。 
何の感情も伺えない赤い瞳の奥が、一瞬不安げに揺れたような気がして。 

「…今回もよく描けている」 

リジィは素直な感想を述べるしかなかった。 











ゆっくりと日常が流れていく。 
リジィの姿が見えないとうろうろと探しまわり、みつけるとしつこさを感じない程度に後ろをついてまわるサナギに初めは落ち着かず眉根を寄せていたが、いつのまにか気にならなくなった。 

教えた単語を一つ一つ覚えてはゆっくりと咀嚼するように口にするサナギを眺めながら、リジィは目尻を少しだけ緩やかにする。 
教えたことを従順にひたむきに学び吸収していくサナギの様子は、少なからずリジィには心地が良いものだった。 
サナギはリジィが言ったことは極力忠実に実行しようとする。 
リジィが黒いものを白いといえば、サナギはそれは白だと言うかのように。 
サナギのリジィに対する態度や眼差しはどこか盲目的で危ういものであったが、疑念と奸計あふれる環境で常に神経をとがらせていたリジィには安らぎを覚えるもので。 

サナギにとってはむずかしかったらしい発音の挨拶を、一日で聞き取れる状態にしたのには、素直に感心し心の底から褒めたものだ。 
勤勉なものは好ましい。 
ひたむきに知識や技術を学ぼうとする好奇心はリジィにも覚えがあるものだったし、サナギには自分を貶めるような打算など一切ないのを知っていたから。 

それは主人と従者というよりは教師と生徒といったような雰囲気で、互いのよそよそしさは未だ色濃かったがそれでも居心地の悪さを感じないもので。 
寝食を共にし、言葉を教え、服を与え、穏やかと言っていいかわからないが、静かに毎日が過ぎていく中。 




















サナギが突然倒れた。

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