朝を連れてきてくれたひと 中編
ドッ!!と腹部に衝撃が走り、371の身体が鉄格子から離れ狭い室内の後方へと飛ぶ。
奴隷商人が躾用の道具と称して持ち歩いている、金属でできた棒が視界に映る。
どうやらあれで突かれたらしい。
体内の臓器が棒に突かれたことでぐにゃりと歪んだ感覚と、背中を打った衝撃に口からゲホッと空気が漏れたが、痛みはなかった。
それは、もうずっと前に失った感覚だ。
奴隷商人は怒り狂っていた。
まさか371が客に対して能動的に動くとは思いもしなかったのだろう。
その声色は怒りと動揺でいつもより固く、激しい。
「お前は何をやっているんだ!いつもどおりおとなしくしていればいいものを!!」
金払いの良さそうな客を捕まえたのに、気分を害したらどうすると、件の客の前で声を荒げる奴隷商人は我を忘れているのだろう。
「お前のようなおぞましい【化物】、他所で生きていけると思っているのか。お前はおとなしくここでつかわれていればいいんだ!!」
「…、……」
先程まで作り物めいた冷めた表情を浮かべていた客が、少し眉根を寄せたのにも気づいていない。
怒鳴っている奴隷商人の足元でこつんと小さな音がした。
足元をにらみつけるとそこには先程まで371が握りしめていた青いガラス玉が落ちている。
先程の衝撃で371が落としてしまったものだ。
「…、ぁ…」
ぼんやりと罵声を聞いていた371の瞳が微かに揺らめく。
拾わなければ、とまた暴力を振るわれるのも気にせずに起き上がり、有事以外は緩慢にしか動けないよう枷で制御された身体が腕を伸ばすよりも先に。
「今日の清掃担当は誰だ!客が来るから掃除しておけと言っただろう!!」
苛立ちが頂点に達した奴隷商人が転がってきたガラス玉めがけて足を振り下ろす。
371の眼の前で、パリンと乾いた音がした。
「――、―…」
青いガラス玉が奴隷商人の足元で粉々に砕けている。
ひんやりとした心地の良い色をしていた丸いガラス玉がなくなってしまった。
なくなって、しまった。
なくなってしまった。なくなってしまった。なくなってしまった。なくなってしまった。なくなってしまった。なくなってしまった。なくなってしまった。なくなってしまった。なくなってしまった。なくなってしまった。なくなってしまった。なくなってしまった。なくなってしまった。なくなってしまった。なくなってしまった。なくなってしまった。なくなってしまった。
「――、………、―――ッ!!!!!!!!」
激しい喪失感に意識が真っ赤に染まり、ボロボロの布を纏っていた貧相な身体がどくどくと波打った。
371の腕が脚がどす黒く変色し、変色した部分からは無数の腕のようなものが生える。
ミシミシと音を立てて背中が裂け、爬虫類の鱗のようなもので覆われた翼が現れる。
無数の傷と包帯で覆われた顔には、ところどころに鱗のようなものが浮かび上がる。
もともと生気がなかった紅い瞳が凝り固まった血のように濁り、瞳孔が細く尖り、うめき声が聞こえる口からは鋭い牙が見え隠れした。
傷んだ緑髪がザワザワと音を立てて、まるで植物の葉のような物へとかわっていく。
膨張するように膨れ上がった身体は、はめられた枷を物ともせず、印は四散し、五つの枷は砕けて壊れて地面へ落ちた。。
寄せ集めの遺伝子の成れの果て。
そこにいたのは紛れもない【異形の化け物】だった。
「ひっ…!?」
眼の前で変貌した371に、恐怖に顔を歪めて奴隷商人が後ずさりそのまま尻もちをつく。
幾重にも重ねた術を込めた枷が一斉に破壊されたのだ。
こうなればこの化物を制御することができない。
突如訪れた死の恐怖に腰が抜ける。
「――ッ、ア゛…―、――」
371の口からくぐもったうめき声が聞こえた。
無数のどす黒い腕のようなものが一斉に鉄格子を砕き奴隷商人の方へと伸びてくる。
ほうほうの体で這うように逃げようとしながら奴隷商人は絶望した。
このままこの無数の手は奴隷商人の身体をずたずたに引きちぎるのだろう。
居合わせた客を巻き込んで。
そう思った、刹那。
ガッ!!と音を立てて客の方へと伸びてきた黒い腕が弾かれ、たまたま近くにいた奴隷商人も難を逃れた。
見えない壁がそこに現れたかのようだ。
奴隷商人が唖然とした顔で客のほうを見上げる。
「………」
客は奴隷商人には見向きもせず、腕を組み無言で371の方を見つめていた。
青みがかった黒髪は毛先が青白く発光し、煌々と輝いていた碧眼はより光を増して天色へと変化している。
身につけていた装飾品が共鳴するようにキィンと音を立て重力に逆らって浮き上がっている。
どうやら客が魔術を行使したようだ。と奴隷商人は漠然と理解した。
衝動のまま無数の腕を伸ばした371に明確な殺意はなかったのか、弾かれた腕を地面や壁に叩きつけていたがそこに規則性はない。
「う…ゥ…」
うめき声を上げながら、何かを探すように無数の腕が、変貌した首が、瞳がぐるぐると動いている。
客は一瞬371から視線をはずし割られたガラス玉をちらりと横目で見たかと思うと、おもむろに身につけていた装飾品を一つ外し破壊された鉄格子の向こうへと投げ入れた。
「……?」
カツン、カツンっと音を立てて371の前に客が投げ入れたものが転がってくる。
それが青くて丸いものだと理解した瞬間、恐る恐ると371の身体から現れた異形の手が伸ばされそれを拾い上げる。。
ひんやりとした心地の良い感触が371に伝わってきた。
「…、……」
ミシミシと音を立てて翼のようなものが折り畳まれていく。
無数の腕がどろりと溶けて地面に落ちて消える。
顔を覆っていた鱗が消え、髪はもとの材質へと戻り、変色した箇所が元の色へと戻っていく。
気づけば371の姿は再び子供へと戻っていた。
客の方も、すでにその瞳と髪は元の色へと戻っている。
伸ばされた371の異形の腕をまるで幼児の手を叩くようにいなし落ち着かせてしまった客に、奴隷商人の目が丸くなる。
「り、リジェミシュカ様、」
「…気安く私の名を呼ぶな」
おとなしくなった371を眺めていた客―― リジェミシュカ ――は、不愉快そうに眉根を寄せた。
閃光と紅炎を携えし、煌火の魔剣士一族のアンロリッシュ家に異端児が産まれた――という話は、アンロリッシュ家が管轄する領地から遠く離れたここでも有名な話だ。
その異端児は闇と氷、蒼炎という相反する属性を持ち、その血の半分は悪魔と契約した恐ろしい魔女の血が流れているらしい。
悪魔に愛されていると言われたその子供はその身に強大な魔力を宿し、周りのものを不幸へと陥れるとまで言われていた。
この辺り一帯では物珍しさからか不吉とまで言われる黒髪を有していたことも噂に拍車をかけていた。
彩度の高い、ややタレ目の碧眼を有した容姿は、どちらかといえば柔和な印象を与えるはずだが、その表情は作り物めいており、他人を見る目は一切興味がないとでも言いたげに常時冷めきっていた。
相対したものは、得体の知れない恐怖や不安に駆られ、思わず目をそらすほどに。
加えて人の身にそぐわぬ魔力濃度と質量はコントロールすることが難儀であり、一度暴発すれば甚大な被害が予想されるのだという。
その危険性から数年前までは屋敷にて秘匿されていたが、いずこかの魔術師機関へと所属することになり、屋敷の外へと姿を見せるようになった。
長男として産まれた身だが、その出生などからアンロリッシュ家は若くして弟である次男が前領主の跡を継ぎ、現領主として領地を治めているらしい、
その異端児の名は、リジェミシュカ・フローゼ・アンロリッシュ。
今この場所で不機嫌そうに腕を組んでいる男がそうだった。
奴隷商人はリジェミシュカを街中でみかけたとき、良い鴨を見つけたと思った。
何せ、つい数年前まで屋敷から一歩も出たことがない世間知らずのご子息様だ。
売れ残っている奴隷を舌先三寸で言いくるめ、高値で売りつけてしまおうなどと考えていた。
奴隷商人はわかっていなかった
この街の治安はさほど良くない。
世間知らずなご子息様のはずであるリジェミシュカが、とくに何か問題に巻き込まれたわけでもなく道端を歩いていることがどういうことであるのかを。
「気が変わった」
低く透き通るような声があたりに響く。
「はい?」
始めに声をかけたときも、商品の説明をしているときも、最低限の返答しかなかったリジェミシュカの突然の発言に奴隷商人は一瞬呆気にとられた。
「もっと屈強な肉壁になるようなのをと思ったが。君、この辺り一帯はすべて商品だと言っていたな?」
「え、ええ、はい…」
「いくらだ?」
「は…?」
「あれは、いくらだ?」
おとなしくなった371を眺めながらリジェミシュカが奴隷商人に問う。
予想していなかった事態に奴隷商人が慌てたように取り繕った。
「いっ、いえ~、あの、みましたでしょう、さっきのおぞましい姿を! とてもあなたが手に負えるようなモノではないかと…」
先程の異形な姿に恐怖と嫌悪感を抱きはしたが、安易に手放すには371の能力と従順さは惜しいと奴隷商人は思っていた。
そもそもこんな薄気味悪い子供を世間知らずのご子息様が欲しがるなど思いもしなかったので、どうしたものかと考えあぐねているのが顔や声に滲みでてしまう。
「むしろ、あれはそちらが手に負えるものではないと思うが?」
必死に取り繕う奴隷商人を一瞥し、リジェミシュカは淡々とした口調で疑問を口にした。
口をつぐむ奴隷商人。
そこへ畳み掛けるように言葉を続ける。
「見ていなかったのか。あれの荒れ狂う異形の腕をとめたのは私だ。この程度も制御できぬようであれば、いずれあれにこの場もそちらも破壊しつくされ跡形も残らなくなるかもしれんぞ?」
作り物めいた無表情を浮かべ続けていたリジェミシュカが初めて表情を変えた。
口角を上げ、膜が張ったような碧眼を細める。
笑みといってよいのかわからないような酷薄な表情だ。
奴隷商人はひゅっと息を呑んだ。
確かにあれだけ重厚な鎖と隷属の印を重ねがけしていたというのに、先程の371はそれを凌駕していた。
奴隷商人を殺せば自らも死に至る呪印であったが、それがあの371という化物にどこまで有効なのかはわかるところではない。
今、鉄格子は371に破壊され、この場で奴隷商人を守るものはなにもないことを思い出す。
「過ぎたる力は扱いを誤れば破滅を導く。…ふ、命あっての物種だ。悪い話ではないだろう?」
リジェミシュカが少しだけ首を傾けて、先程より強く笑みを浮かべた。
「う、うう…」
奴隷商人はこの男に声をかけるべきではなかったと後悔していた。
その笑みはどこまでも冷たく浮世離れした薄気味悪さを纏っていて、まるで。
まるでお伽噺に出てくる【魔女】のようだったからだ。
手続きを終えたリジェミシュカと371は、リジェミシュカが停泊している宿にいた。
371の枷は外されたままだったが、隷属契約は施行されている。
実施したのは奴隷商人ではなく、そちらのやりかたは信用できんと突っぱねたリジェミシュカ自身だったが。
「――さて。【動くな】」
「…――!」
強制力を持った声が371を縛りその場に身体が凍りつく。
奴隷商人にはめられた枷に刻んであった印とは比べ物にならない強制力だった。
始めはその強さに身体がビクリと反応したが、371は目の前の男が自分の新しい持ち主になったのだろうと理解していたので、強制力にそのまま身を任せる。。
「突然噛みつかれてはたまらんからな。暫しおとなしくしていろ」
そういいながら371の喉元へとリジェミシュカの手が伸ばされる。
首を絞められるのだろうか、と漠然と371は思ったがそうではないらしい。
何かを確かめるように371の喉のあたりを、リジェミシュカの黒い手袋に覆われたしなやかな指が伝う。
魔術を行使しているようで、リジェミシュカの瞳がまた煌々と輝く天色に変化していた。
奴隷商人に割られてしまったガラス玉よりも、その後投げ込まれた装飾品についていた宝玉よりも、その瞳の色は冷たく美しかった。
「…なるほど、声帯を潰されているわけではないようだな。言語学習を実施されていないだけか」
どうやら声帯の状態を確認していたらしい。
371がまともに言葉を発しないのが気になっていたようだ。
リジェミシュカは他人に触れられるのを嫌うが、興味を抱けば自ら触れることもある、他人の都合を考えない気まぐれで身勝手な男だった。
満足したのかそのままするりと371の喉元から手を離し、ついでだとばかりにトンッと371の額を軽く押すと。
キンッと甲高い音がその場に響いた。
371は強い違和感を感じて身じろぐ。
身体が、軽い。
まるで、闘技場に駆り出されるときに一時的に行動の制限を解除されたときのようだ。
「…、………?…?」
疑問を言葉にする術をもたない371はただ首を傾げるしかない。
「モノ言いたげだな。何、どうということはない。隷属契約を解除した。それだけだ」
「…?」
「つまり、今の君は【自由】だ。何にも縛られぬという感覚はどうだ?」
自発的な思考を今まで許されていなかった371には理解が追いつかない。
知ってか知らずか、リジェミシュカはそのまま言葉を続けていく。
「少々興味があったのでな。君が自由を手に入れた場合、まず買い取った私に牙をむくのか、今まで君を所有していたあれに報復を行うか。…腹立たしいとは思わんか? 不当な扱いを受けて憎いと。明らかな格下にいいように扱われて許せないと。新しい主人もごめんだと」
「…、……?」
「今の君はその力を思うがままに振るうことができる。どうだ?」
悪魔のような囁きが、低く透き通った声がと共に371の鼓膜を震わせる。
眼前で酷薄な笑みを浮かべた新しい持ち主は、こういっているのだ。
――逃げたければ逃げればいい、と。
――復讐したいならすればいい、と。
なぜそのようなことを問うのか、リジェミシュカの真意は371にはわからない。
いや、リジェミシュカの本心がどこにあるのか把握するのは371ではなくても難しいのかもしれない。
リジェミシュカが浮かべる表情は、喜怒哀楽を記号にしたような酷く【透明】な物で、表情から汲み取ることができる考えが必ずしも本心とは言い得ないからだ。
「………」
371はぼんやりとリジェミシュカを見つめていた。
瞳を瞬かせることもなくリジェミシュカを見つめる371の自我は異常なほどに薄く虚ろで、抵抗の意志も自由への渇望もそこには芽生えていない。
リジェミシュカの悪魔のような囁きもただの音の羅列として371を通り抜けただけだった。
リジェミシュカは自分を見つめてくる371をしばらく見つめ返していたが、やがて苦々しく碧眼を眇めると小さく息を吐いた。
「…そうか。憎悪すらもそこにはないのか」
「……?」
「過ぎたる力を嘆くこともできず、不当な扱いに憤りを感じることも出来ぬとは、」
「――哀れな」
ぽつり、と呟くリジェミシュカの表情は相変わらず作り物めいていて冷然としていたが、凪いだ水面のような瞳の奥には自嘲の念が垣間見えていた。
371はそれを理解することが出来なかったが、内包するいくつかの本能がざわめいてやがて一つの思考へと収束する。
脳裏に浮かんだのは、【ここを離れるべきではない】という不可解で漠然としたものだった。
ゆっくりと首を傾けて控えめにリジェミシュカの服の裾を掴む。
「…、…ん?」
リジェミシュカはそれに微かに眉を寄せたが、371の行動を咎めずそのまま好きにさせた。
素肌はもちろんのこと、服ですらも他人に触れられるのをリジェミシュカは嫌っていたが、371のあまりに人間味のない瞳に拒絶する気も失せてしまう。
小さな手から伝う振動にかすかな戸惑いを感じながら、話題を変えるように口を開く。
「しかし、番号で呼ぶのも味気がないな。そうだ、君に名をやろう。あって困るものでもない」
「……?」
「だが、安易に決めるのも問題ではある。名実ともに君の所有権はあのいけ好かない商人から私へと移った。あまり奇抜な名をつけて、私の品性まで疑われてはたまらん。いや、しかし、番号でよばれていたところに関連性が全くない名をつけて浸透するかと言われても難しいか。ううむ…しばし待て」
「……」
リジェミシュカがぶつぶつとつぶやいている内容を371はほとんど理解できていなかったが、命じられたようにそのままじっと待つ。
しばらくして。
「371か…。うむ…。な…ぎ…」
「…?」
「よし、これでよいな。これにするか」
リジェミシュカは一つ頷くと、脳内で描いた術式に魔力をゆっくりと組み込んでいく。
「―今より、主人であるリジェミシュカ・フローゼ・アンロリッシュの名において、この者の名義を改定する。その名は――」
命名の儀。
それは魂に名を刻む魔術の一種だ。
これを行使されたものは、たとえ言葉を理解する知能を持たない者でもそれが自らの名だと瞬時に理解する。
「【サナギ】」
リジェミシュカから凛とした声とともに発せられた三つの音が一つの単語になって371へと刻まれる。
「―、――」
371の中に音の羅列だったそれが意味を持ち染み込んでいった。
「君は今日から【サナギ】だ」
「…、さ、な、ぎ?」
「そうだ。…追々、私の名も覚えてもらうぞ。良いな、サナギ」
こうして371と呼ばれた異形の化け物は、この日から【サナギ】になった。